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2021年01月12日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜まとめ〜


 最初の解釈でも述べましたが、兵助は親に連れられて、この靴屋に13歳の年に奉公に来たと思われます。
 奉公と言うのは衣食住が約束されているだけで、給料が出るわけではありません。きっと兵助の実家は貧しくて、たとえ「差別を受けている」と思われる「靴屋」でも、奉公すれば手に職を付けられると兵助の親は考えたのでしょう。ですが、おそらく親は、兵助を奉公に出さずに済ませたいと思っていたことでしょう。苦渋の決断であったろうと推測します。おそらく奉公させるために兵助を靴屋に連れて来たとき、兵助の着物や常備薬などを持たせたことでしょう。(転じて、兵助の「靴」のケースでは、「靴ずみ」「ブラシ」「釘」がそれに当たります)
 
 また兵助の親は靴屋の親方に「この子を大事にして可愛がってやってください」とも言ったかも知れません。逆に親方は「旅人」のように「この子をどんなふうに使おうとこっちの勝手だ」と言ったのかも知れません。
 しかし、この親方のような当時の「職人」が、親切かつ、靴作りの技術を効率的に教える能力を持っていたとは思えません。おそらく兵助は見よう見まねで靴作りを学んだのだと思います。きっと相当な苦労があったでしょう。靴屋の親方にひどい扱いを受けたかも知れませんね。

 余談ですが、私の知り合いに「長唄囃子方」(ながうたはやしかた)をやっている人がいました。日本舞踊などで鼓を打ったり、太鼓を叩くのがその仕事です。その人は昭和30年ごろ(1955年ごろ)に、兵助同様に「口減らし」のため、囃子方のお師匠さんの家に内弟子として親に入門させられました。いわゆる「住み込み」で鼓の打ち方や。太鼓の叩き方を教えてもらうわけですが、師匠の家の家事全般を受け持つのが主とした仕事で、たまに稽古をつけてもらう程度だったと言います。
 さて、その稽古での話です。ある時、太鼓の叩き方を教えてもらう日がありました。両手にバチを持って叩くのですが、叩き方を間違うと師匠から樫の木のバチ(樫は相当に固い木)で手首をしたたかに叩かれたそうです。叩かれた手首はしびれ、腫れ上がって、しばらくはバチも持てないほどだったと言います。
 兵助の物語の時代から25年も経っていても、いわゆる「師弟間での指導」というのはそういう非効率かつ非科学的な指導だったようです。
 兵助も親方から、何かの失敗をしてしまった時には靴の底の釘を打つカナヅチで手首を叩かれたのかも知れませんね。
 
 兵助は奉公に来たとき、淋しくて、心細くて、悲しくて親を恨んだかも知れませんね。ですが、そんな兵助が「自分の靴」を旅人に売った後、きっと「あの時の親の気持ち」が理解できたのではないかと思います。
 題名が「買われていった」ではなく「売られていった」ということ。すなわち「買う」のは旅人であり、「売る」のは兵助です。靴(子供)は「兵助に売られた」ということになります。これまでの想像を踏まえると、兵助(子供)は親に「売られた」のかも知れないと思うのです。考えすぎかも知れませんが…。

 朗読をするにあたっては聴き手や登場人物(兵助、旅人)の心情と具体的な行為を想像しないといけません。そしてその想像を裏付けるものが、本文中の様々な言葉について調べ、考えを広げることが重要なのだろうと思います。
 このブログでお話ししたことが少しでも「朗読者を志す人」の参考になっておれば幸いです。
 
 それにしても、新美南吉という人は「優しい人」なのだとつくづく思います。



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2021年01月11日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その6〜

とうとう旅人に叱られてしまった兵助です。
兵助の行動は?

兵助(へいすけ)は、「ごめんなさい。」とあやまりました。

 朗読で具体的に場面や兵助の身体行動を表現することは難しい上に、あくまで想像による解釈に過ぎないのですが、兵助は頭を下げたと思われます。
 旅人に正対して頭を下げると、兵助の視線の先には旅人の足元の「靴」があるはずです。
 兵助が自分の作った靴(=子供)を間近で見る最後の機会だということになります。
 朗読者はこのときの兵助の思いに寄り添うべきでしょう。
 兵助が「靴=子供」と別れる最後の瞬間です。切ないです。

 そして、旅人のすがたがみえなくなるまで、じっとみおくっていました。

 もう言わずもがなですが、兵助は旅人を「みおくって」いるのではなく、「自分の作った靴(=子供)」を見送っています。
 兵助が見送っている時間を想像して読むスピードを考慮しないといけません。
 もちろん兵助の悲しさや淋しさに寄り沿ってやるべきでしょう。

 兵助は、あの靴(くつ)がいつまでもかあいがられてくれればよい、とおもいました。
 
 靴(=子供)の行く末を祈るしかない「親の心情」でしょう。

 
 次回は、「まとめ」を掲載して締めくくりとします。





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2021年01月10日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その5〜

 しばらくすると、また兵助は、おもいだしたように、旅人のあとを追っかけていきました。

 旅人を追いかけるのは2回目です。聴き手はおそらく「次はどんなお願いをするのか」とその具体的な内容に興味を持つことでしょう。
「また」は意味音声(強調)にしたほうが良いと思います。具体的にはやはり「また」の音程を上げるということです。


「もしもし、その靴(くつ)、だいじにはいてやってください。」

 兵助は具体的なお願いをせず、あるいは「できずに」、靴が「買われた」ときに言った言葉を再度繰り返しました。つまり「だいじに」してもらうことが兵助にとって最優先だったということがわかります。
 しかし、この発言の前に「おもいだしたように」とありますから、ひょっとするとその時の兵助には「何か具体的なことを旅人にお願いしなければならない」という思いがあったのかも知れません。
 でも結局、具体的な内容ではなく「靴を思う気持ち」だけを述べます。やはり「子供を思う親の気持ち」に共感してやることが朗読者には必要でしょう。


 旅人(たびびと)はとうとうおこりだしてしまいました。

 兵助のこれまでの意外な行動に驚かされ続けてきた旅人です。「(靴を)かあいがれ」「靴ずみとブラシで手入れをしろ」「底が抜けたらクギで補修しろ」そしてまた「かあいがれ」という兵助への「いらだち(いらだつ)」という内的動詞が次のセリフに反映されるべきでしょう。
 兵助の靴(=子供)に対する思いが空回りしたのだと言えるでしょう。それほど兵助は自分の作った靴がいとおしくてたまらないのでしょう。

「うるさいこぞうだね、この靴(くつ)をどんなふうにはこうとわたしのかってだ。」

 先述しましたが、兵助の言動への「いらだち」が表現されるべきでしょう。ただ、どこまで「苛立つ」「怒る」のかは朗読者の個性によって変わると思います。また解釈上では、すでに「靴=(兵助の)子供」という認識はされています。つまり「この子供をどう扱うかは私(旅人)の自由だ」という意味になります。
 「靴を買った旅人=客=権利を持つ者=権力者」という構図ですね。
 この意識は今も変わらないと思います。この一言で兵助は無力感にさいなまれたことでしょう。かわいそうです…。

 余談ですが、私も若い人たちを指導する立場なので、つい「権力」を振り回していることがあるかも知れません。確かに昔は「思いっきり権力を振りかざして」いたように思います(笑)
 今から思えば許されないことだったと思います。
 でも、歳をとった今では「自分は無能な人間だ」と自分に言い聞かせられるようにもなりました。
 お陰で、良くも悪くも腹を立てることはなくなりました(笑)
 人間は「今ここにあること」と「他者に生かされていること」への感謝だけをしておれば良いのだと思います。

さあ、兵助はどうするのでしょうか……



posted by 塾長 at 02:08| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月09日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その4〜

自分の靴を買ってくれた「旅人」に、兵助は「靴ずみ」と「ブラシ」をあげました。いずれも「靴のケア」をする品物ですね。
兵助は自分の子供のような靴をケアしてほしいのですね…。
子供の身を案じる「親」の立場なら、これらの品物は「薬」や「肌着」のようなものかも知れません(笑)

さあ、旅人はどう思ったのでしょうか?


旅人(たびびと)は、めずらしいことをいうこぞうだ、とかんしんしていきました。

 「めずらしいことをいうこぞうだ」は旅人のセリフです。実際に発声したわけではないのでカギカッコでくくられていません。いわゆるモノローグ(心の声)です。しかし「かんしん」しているので、その内的動詞は音声表現したほうがいいでしょう。良い意味で「軽く驚く」という動詞で良いと思います。
 そして「旅人」は「行ってしまいます」が、その時の兵助の視線はどこにあるでしょう。おそらく旅人の足元、つまり「靴」を見ているのでしょう。やはり「子を見送る親」の心情を心にとどめておくべきだと思います。

しばらくすると兵助は、つかつかと旅人のあとを追っかけていきました。

ここは意外な展開です。朗読者は聴き手の立場に立って、やはりこの物語の聴き手が「(少し)驚く」という内的動詞を表現したほうがいいでしょう。

「もしもし、その靴(くつ)のうらの釘(くぎ)がぬけたら、この釘(くぎ)をそこにうってください。」
といって、釘(くぎ)をポケットから出してやりました。


 現在、靴の底は糸で本体と縫い合わされていることが多いのですが、当時は短い釘で靴本体と貼り合わせているケースが多かったのです。
 最初は「靴ずみ」「ブラシ」でケアに対する配慮を見せた兵助ですが、底が抜けてしまうとこの靴は廃棄されてしまうかも知れません。
 兵助にとってそれは最悪な事態なので、それを避けようとしたのでしょう。しかし、先述しましたが、当時の靴は「履きつぶす」ものだったはずです。(あ、今もそうか…)
 そう考えると、兵助は自分の靴が履きつぶされることも否定したかったのかも知れませんね。

 ところで「ポケットから」「出してやりました」ではなく「ポケットから(釘を)だして」+「(旅人に)やりました」という意味でしょう。「だして、やりました」というイントネーションになります。
 ここでの兵助は「案じる」という行動が大きいでしょう。

 兵助は「自分のつくった靴」が可愛くて、いとおしくてしょうがないのでしょうね?



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2021年01月08日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その3〜

さあ、「売られていった靴」の三行目からの私見を述べます。

するとひとりの旅人(たびびと)がやってきて、その靴(くつ)を買いました。
 
 兵助の初めてのクライアントが「旅人」であるということが重要です。つまり兵助は自分の作った靴と再会する可能性が極めて低いということになるからです。
 ちなみに現代のように服に合わせて靴を変えるというような考えはなく、せいぜい洋服なら靴、和服なら下駄や草履という時代です。
「旅人」ですから、おそらく履きつぶした靴と履き替えるために兵助の靴を買ったのでしょう。ですから「買った」この時点で、兵助の靴は「旅人」に履かれています。

兵助は、じぶんのつくった靴(くつ)がはじめて売れたので、うれしくてうれしくてたまりません。

 モノづくりの喜びが伺えます。自分の作ったモノが他者に評価されたということです。「うれしくて」という言葉が繰り返されていることから兵助の「喜ぶ」という内的動詞を表現しないといけないでしょう。具体的には2回目の「うれしくて」は1回目より音程を上げた方が良いと思います。

「もしもし、この靴(くつ)ずみとブラシをあげますから、その靴(くつ)をだいじにして、かあいがってやってください。」と、兵助(へいすけ)はいいました。

 たかが物体である「靴」のことを「だいじにしてかあいがってやってください」とまで言う兵助です。
 ここから「自分が作った靴」は兵助にとって「自分の子である」という意識を読み取ることができます。子を思う親の気持ちだと理解できます。
 読み手は兵助の「親としての心情」に共感して少なくとも「(子供を送りだす)喜び(喜ぶ)」という内的動詞と、「(子供の行く末を)案じる(心配する)」という内的動詞をカギカッコのセリフに複合的に出力させないといけないでしょう。課題となるのはその割合をどうするかということです。この内的動詞の配合の割合をどうするかということは人によって異なるので、それがその朗読者の個性だと言えるでしょう。

 「喜ぶ」を大きく表現する人もおれば、「案じる」を大きく表現する人もいるでしょう。
 私の教え子のある人は「案じる」(心配する)を大きく表現しました。さらにその表現からは「靴(=子供)と別れる悲しむ(み)」も表現されていたように思います。
 その結果、その朗読は「優しい」表現になりました。私は自分の好みで言えばこういう表現が好きです。しかし、演出上の観点で、まずはこの時点では「喜ぶ」を大きく表現した方が良いという考えもあると思います。

 さあ、このような兵助の言動に「旅人」はどんな感想を抱くのでしょうか?
ラベル:新美南吉
posted by 塾長 at 01:46| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月06日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その2〜

さて、今回から本文の解釈と表現の私的ヒントを述べてまいりますが、参考として「新美南吉記念館」のHPを紹介しておきます。
申し訳ないことに私は伺ったことがありません(笑)
いつか訪いたいものです。

さあ、解釈を始めてまいりましょう。
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売られていった靴   新美南吉


 後に解説しますが、このタイトルは大きな意味を含んでいると思われます。「売られて」「いった」「靴」それぞれに意味があります。もちろん聴き手にはこの時点で、そういう「意味」は理解できるはずもないのですが、朗読者は全体を解釈した上で、このタイトルの意味を理解して読まないといけないでしょう。

靴屋(くつや)のこぞう、兵助(へいすけ)が、はじめていっそくの靴(くつ)をつくりました。

検討すべき単語で一文が構成されています。
「靴屋」「こぞう」「兵助(という名前)」「はじめて」「つく(った)」です。

まず「靴屋」についてです。
靴は、この時代では言うまでもなく「皮革」で作られています。
現在、「靴職人」と言えば創造性と技術を併せ持ったアーティストとして認められていますが、昔の日本では「皮を扱う人」というのはいわれなき差別を受けていた人が多いと思われます。
「こぞう」と書かれていますから「兵助」はこの靴屋の家族ではなく、奉公人でしょう。「奉公人」というのは俸給(給料)を約束されているのではなく、仕事をする対価としては衣食住が保証されているにすぎません。
おそらく兵助の親が子供の兵助を「口減らし」としてこの靴屋に奉公させたのではないかと思うのです。あくまで憶測にすぎませんが…。
兵助の実家は貧しいのだろうと推測されます。なぜなら「差別をうけていたであろうところでも奉公させなければならない」ということからその貧窮ぶりが覗えるからです。我が子である兵助も、ひょっとすると「被差別者」になる可能性もあるのですからね。これも憶測ですが…。

さて、現代では靴の専門学校もあるそうですが、そういうところで技術教育を受けても「いっそくの靴」を作れるようになるまで三年ほどかかるそうです。すなわち「はじめてつくる」には少なくとも(親切丁寧な技術指導を受けていても)3年以上かかるということです。この靴屋の親方がそのような「親切丁寧な指導」を兵助に施したとは思えません。
兵助は言われるままの仕事を黙々とこなしつつ、見よう見まねで靴作りを学んだのではないでしょうか。苦労が偲ばれます。
ちなみに当時の義務教育は現在の小学校卒業までですから、おそらく兵助は13歳になる年に奉公に来たのだろうと思われます。だから、いくら早くとも兵助が靴を作れたのは、兵助が16歳を迎える年以降だと考えられます。

南吉は昭和6年(南吉18歳)にこの物語が含まれた「ごん狐(権狐)」の草稿を書いているよう(新美南吉記念館HPより)ですが、このころ日本は満州事変を始め、戦争に向かう道を歩み始めています。そういう時代背景から「兵助」という名前になっているのでしょう。人名は時代を映します。

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のっけから長い説明をしてしまいました
なにしろまだ題名を含めて2行しか進んでいません(笑)
しかし、説明を読むだけでも大変だと思いますので、こんなペースで進めて行くことにします。
たぶん読んでいらっしゃるかたはいないと思うのですが、こんな私見でもいつかどこかで誰かの役に立つこともあるかも知れませんのでね?

次回は3行目からです(笑)







posted by 塾長 at 02:43| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月04日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その1〜

「朗読」はいつぞやこのブログで述べたように「映像や画像なしで、音声のみで情景や心象を表現する」ものです。
身近な例で言えば、大人が子供のために昔話を聞かせたり、絵本を読み聞かせるようなものです。(絵本の場合はビジュアルが当然ありますので、やはり「情報量」が多いし、文章も子供向けなので、わかりやすい言葉を使っていることでしょう)

さて、朗読における読みのスピード、さらには文体については、これもすでに解説をしましたが、やはり中心となるのは「表現」でしょう。

「表現」というのは演技の解説でも申していますが、内的動詞(心理行動)を言語行動(セリフ)あるいは身体行動(行為)を使って「表に現したもの」です。(もちろん言語行動と身体行動の両方を用いることが多いのは事実です)

「感情」と呼ばれる「喜ぶ」「怒る」「哀しむ」「楽しむ」も内的動詞の一部です。

しかし「表現」(内的動詞を出力させること)は単に「感情」を露出することではありません。人間の心理はもっと複雑です。
例えば「喜ぶ」時でも笑顔を見せることもあれば涙を見せることもあります。またその両方(泣き笑い)という表現をすることもあるでしょう? 「感動」という時などはそうですね。

「怒る」もそうです。人によっては、泣きながら怒る人もいるでしょう。これは「哀しむ」という心の動きを伴った「怒る」という行動です。
内的動詞の出力、すなわち「表現」というのは複合的心理行動の表出だと言えるでしょう。
さて、以上の説明を踏まえて「売られていった靴」という新美南吉の小説をもとに解釈と表現を考察してみます。

この作品を朗読してみようとお考えの方や、「朗読ってなぁに?」とお考えのかたの参考になれば幸いです。

まずは「青空文庫」にある原作を記載しておきます。
読んでみてください。

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売られていった靴   新美南吉

靴屋(くつや)のこぞう、兵助(へいすけ)が、はじめていっそくの靴(くつ)をつくりました。
するとひとりの旅人(たびびと)がやってきて、その靴(くつ)を買いました。
兵助は、じぶんのつくった靴(くつ)がはじめて売れたので、うれしくてうれしくてたまりません。
「もしもし、この靴(くつ)ずみとブラシをあげますから、その靴(くつ)をだいじにして、かあいがってやってください。」と、兵助(へいすけ)はいいました。
旅人(たびびと)は、めずらしいことをいうこぞうだ、とかんしんしていきました。
しばらくすると兵助は、つかつかと旅人のあとを追っかけていきました。
「もしもし、その靴(くつ)のうらの釘(くぎ)がぬけたら、この釘(くぎ)をそこにうってください。」
といって、釘(くぎ)をポケットから出してやりました。
 しばらくすると、また兵助は、おもいだしたように、旅人のあとを追っかけていきました。
「もしもし、その靴(くつ)、だいじにはいてやってください。」
 旅人(たびびと)はとうとうおこりだしてしまいました。
「うるさいこぞうだね、この靴(くつ)をどんなふうにはこうとわたしのかってだ。」
 兵助(へいすけ)は、「ごめんなさい。」とあやまりました。
そして、旅人のすがたがみえなくなるまで、じっとみおくっていました。
兵助は、あの靴(くつ)がいつまでもかあいがられてくれればよい、とおもいました。
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短かい作品です。
読むのにそれほど困難はないでしょう。
私は教え子たちに「暗唱できるようになっておきなさい」と言います。
何かのオーディションの時に「特技」になるかも知れないからです(笑)

さて、次回からはこの本文を解釈していくことにしましょう。


posted by 塾長 at 01:09| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月02日

アナウンス・ナレーション・朗読の違い……って? その4

前回、参考に挙げた「羅生門」などは朗読されることが多いようですが、厳密に言うと本来の「朗読」用の文章とは言い難いと思います。
なぜならやはり「読み返しが可能な、あくまで文字で書かれた文章」の作品だからです。
「朗読」では「読み返し」や「聴き直し」がありません。
冒頭から情報がちゃんと聴き手に伝達できる文章でないと朗読には向かないということが言えます。
具体的に言うと、

●漢語や外国語が多い文章は聴き手に理解されにくい

これは「漢詩」や外国語映画を想像すればわかりやすいでしょう。
漢詩は「漢語」で書かれている、すなわち「音読み」が基本です。
例えばこの文章においても「漢語」は「カンゴ」と発音され「漢語」「看護」「監護(未成年者を監督し保護すること)」「観護(裁判所などから出る観察保護のこと)」のどれなのか聴き手は迷ってしまいます。
もちろん前後の文脈やアクセントでわかることもありますが、わかったときにはもう文章が進んでしまっているということにもなりかねません。
外国語の映画はその言語に堪能であればわかりやすいかも知れませんが、そうでない場合は日本語字幕(文章)を見た方がわかりやすい。
朗読に限らず「セリフ」などもできるだけ「和語」(日本語)で表記した方が聴き手の理解は進みます。

〈例〉発音→漢字変換→和語に改稿の順です
カイジュウ → 懐柔 → 手懐ける(てなづける)
セイコウタンサイ → 聖降誕祭 → クリスマス
メイセン → 冥銭 → 三途の川の渡し賃
エンロ → 遠路 → 遠い所から

●朗読での「セリフ」は発話主体(誰のセリフなのか)を先に提示する方が良い。

〈例文A〉「なにがなんでも明後日には必ず返しにいくから」とAさんは言った。

上記の文章だと最後に発話主体(Aさん)が出てきます。それまでは誰の発言かわかりません。そこで少し改稿します。

〈例文B〉Aさんは「なにがなんでも明後日には必ず返しに行くから」と言った。

これで「誰の」発言なのかはわかりやすくなりましたが、Aさんのセリフがどこまで続くのかは聴いていて不明です。やはりさらに改稿します。

〈例文C〉Aさんはこう言った。「なにがなんでも明後日には必ず返しに行くから」…と。

 これでずいぶんわかりやすくなりました。

 ところが小説では以上のような文体はあまり用いません。
だから私は「小説を原文のままに朗読する」ということにはいささか疑問を持つのです。
朗読をパフォーマンスとして展開するなら、演出として原作を改稿したほうが良いのではないかと考えています。

●固有名詞(人名、地名、商品名、会社名など)や数字はゆっくり、はっきり、しっかりと。

 このことは「ナレーション」や「アナウンス」でも同じです。
極端に意識して発音する必要はありませんが、文章に初めて現れる固有名詞や数字は注意した方がいいでしょう。
その後、何度も出てくるときはあまり意識しなくてもいいと思います。

しかし、どうしても原文通りに朗読したいという場合は、読みのスピードその他(用語やルビなど)を含めて「しっかりした演出」が必要だと思います。
演出と言うのは「聴き手」「観客」の代理です。
すなわち「不特定多数の人間が(朗読を)聴いただけでわかるか」またその人たちにとって「おもしろいかどうか」を判断するのがその役割です。
朗読の場合は朗読者自身が「演出」ですから、以上のことを心得て、「わかりやすく」「おもしろい」表現を目指しましょう。
以上の説明は「サンプルボイス」を製作する場合にも応用できるものだと思います。その際の参考にもなれば幸いです。

こまごまと「アナウンス」「ナレーション」「朗読」の違いについて述べてまいりました。
説明がヘタですみません

さて、次回から新美南吉「売られていった靴」をテキストに、「朗読」を行うにあたっての考察を述べることにします。
厄介ですよ〜〜〜〜!!!



posted by 塾長 at 04:36| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月31日

アナウンス・ナレーション・朗読の違い……って? その3

さて、こう考えていくと「朗読」というのは元来「音声のみの情景・心象表現」だと言えるような気がします。
つまり「素材(原稿)」の違い、プラス「映像(画像)の有無」で「朗読とナレーションの違い」がある程度、理解されるのではないでしょうか?

仮に「朗読」が「映像や画像なしで、音声のみで情景や心象を表現する」と考えるならば、提供すべき情報量は「音声」しかないわけですから、あまり速い読みだと聴き手に「情報(情景、状況、人物、心理、行動、地名、人名など)」が理解されない可能性があります。つまり、頼るべき情報が「音」と「声」しかない、ということです。
そういうことを踏まえると、やはり読みのスピードは原則的に速くないほうがいいでしょう。特に、読み始めはかなりゆっくりのほうがいいと思います。なぜなら、聴き手は「これから何を語られるのかわかっていない」というのが原則だからです。
ただし、「ゆっくり読む」というのは、ただ単に「物理的にゆっくり」なのではなく、聴き手が場面を思い描く時間を考慮して読むということです。

単純に時間という物理的側面で言うと、だいたいニュースなどの原稿の読みは400字詰め原稿を60秒〜70秒程度で読むというのがスタンダードな速さなのですが、朗読の場合は「聴き手が場面を思い描く時間」を含めて1.5倍くらい、つまり原稿用紙1枚を90〜105秒くらいの速さで読むことになります。
芥川龍之介の「羅生門」の冒頭を参考にしてみましょう。句読点を含んで210文字くらいの文章です。原稿用紙半分強です。「冒頭」ですから聴き手には何の情報もないことを考慮しないといけません。

 ある日の暮方(くれがた)の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨(あま)やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗(にぬり)の剥(は)げた、大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路(すざくおおじ)にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ)とか火事とか饑饉とか云う災(わざわい)がつづいて起った。

以上の文章を35〜40秒くらいで読むと「ニュース」の速さになります。
だから「朗読」的な速さというのは53秒から60秒くらいということですね。
いちど、ストップウォッチを手にトライしてみてください。

ただ、朗読でも物語の展開が進んで「すでに聴き手に理解されている情報である」と判断される頃には、少し速い読みになってもいいと思います。読みのピッチはそのような「聴き手の理解度」や「描写される場面」(スピード感が必要なシーン)によっても変わってきます。

むずかしい説明になってしまいました。
この「朗読」についての解説は続けることにします。
posted by 塾長 at 00:37| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月29日

アナウンス・ナレーション・朗読の違い……って? その2

今回は「ナレーションとは?」ということについての私見です。

同時にややこしいのが「ナレーション」と「朗読」の境目です。
まず「素材(原稿)」の違いに着目してみました。
「朗読」と言えるのは「文芸作品」(小説、詩、俳句、短歌、書簡など)などの「心情表現」が中心となるものではないでしょうか? 
それに対して「ナレーション」で扱う内容は「客観的事実」に基づく内容が中心だと思うのです。
ただし、それらを「音声表現」する際には、「朗読なのだから情感たっぷりに」とか、「ナレーションは感情抜きで」などと考える必要はないと思います。
しかし、次の要素を加えると若干事情が異なってくるかも知れません。それは…「映像の有無」です。

ご存じでしょうが、「映像」の持つ情報量は相当なものです。想像などしなくても「見れば」わかります。
つまり「映像は雄弁」なのです。これは朗読パフォーマンスなどで時折見られる「ピクチャードラマ」(紙芝居)でも同様です。
そうなると、たとえばテレビなどの映像に音声コメントを付す場合は、その映像の持つ情報量とのバランスで、あまり感情過多に読むと「うるさく」なりがちです。バラエティ番組などのナレーションのうるささはそこにあるのかも知れません。
バラエティ番組の味付けの濃さをさらに煽るような、ナレーションというよりはアジテーションに近いものもあります。

「映像ナレーション」はその映像の補佐的な表現に留めるのが一般的だと言えるでしょう。
その結果、無感情ではありませんが、アナウンスにやや近くなることが多いように思います。
しかし、やはり内容によって、そして部分によって、やや主観的な「心情」を表現する場合があります。
ナレーターはその客観と主観のバランスを場面ごとにコントロールできるほうがいいと思います。

「ナレーション」を「語り」と呼ぶこともありますね。
これまたややこしい!
ひょっとすると「語り」というのはやや「主観的なナレーション」を指すのかも知れませんね(笑)

次は「朗読」について私見を述べることにします。


posted by 塾長 at 01:20| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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