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2020年01月14日

演出や指導者に必要なもの 2〜客観性と想像力〜

演出は「演技指導者」である必要はありません。
いや、中途半端な演技しかできないなら、むしろ邪魔ですらあると思います。
なぜなら俳優の演技が自分の思っているものと違っていたら「見本」を見せてしまいがちだからです。こういうのは「踊る演出」と言います。
セリフの言い方を決めてしまったり(口伝)、動きを決めてしまったり(振付)というような演出です。

私も元来演技者なので、演出時につい「見本」をやってしまいそうになりますので、できるだけ我慢します(笑)
見本をやってしまうと俳優はその物まねをするだけで演技をしたことになります。これは俳優を「操り人形化」する演出です。絶対にやってはいけないと言っても過言ではないでしょう。

演出は「本番まで舞台を見ることが無い観客の代理」です。
その演技で観客に意味が伝わるか、その発声で観客に言葉が伝わるか、観客はこの場面で何を見たいか、などという「客観性」が必要です。文字通り「客が観る」のですからね。
演出だけが意味をわかっているというのではダメなのです。
ところが演出や俳優は「わかってしまっている」ことが多いので、つい「客観性」を失いがちです。
だから私は演出時には俳優はもちろん、さまざまなスタッフにも意見を求めます。

「このセリフで意味がわかるか」
「このシーンの意味が伝わるか」
「どこか意味不明なところはないか」
「そもそもこのシーンは面白いのかどうか」etc.

そのように他者に意見や感想を求めることで、俳優もスタッフも「人ごと」で済まなくなり、全員がその作品に主体的に取り組めるようになることが多いのです。

演出は神様でも芸術家でもなく、調整係であるべしというのが自論です。
(これは会社などでも言えることでしょうね)

さて、以上のことにも関係するのですが、演出や指導者は俳優やスタッフやレッスン生(学生など)の気持ちや事情に思いを致さなければいけないと思います。
自分のダメ出し(できればこの言葉をやめて「オーダー」とか「提案」とか「助言」「意見」がいいですね)がちゃんと俳優やスタッフに伝わっているかを考えないといけないということです。

「無理な注文をしていないか」
「無駄な努力をさせていないか」
「演出の指示に納得できているかどうか」
「何か困っていることはないか」etc.

いわゆる「想像力=思いやり」がリーダーたる演出担当には必要だろうと思います。
いくら有能でも、思いやり(想像力)のないリーダーではメンバーからの信頼を得られません。
(これも会社などで言えることですね)

〜つづく〜


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2020年01月05日

演出や指導者に必要なもの 1〜文章力〜

私はもともと「演出」をしたくて演劇の世界にやってきたのですが、未だに「演出」をやったことはそう多くはありません。

舞台演出:15回(作品)くらい
朗読劇演出:10回(作品)くらい
ラジオドラマ演出:(回数で言うのは難しいのですが)10回くらい
ラジオ番組演出:(これも回数で言うのは難しいのですが)20回くらい
上演台本執筆:5作品くらい

振り返ればむちゃくちゃ少ないですね(笑)

でも、幸いなことにいろいろ勉強させてもらいました。
「勉強」と言うのは、良いものに触れることも大切ですが、悪いものに触れることのほうが有益なように思う今日この頃です。劇団員時代から今までもそうでした。

「なんでこの演技はつまらないのだろう?」
「なんでこの演出者はこんなヘンなことを俳優にさせるのか?」
「この作品が面白くないのはなぜだろう」
「なぜ俳優に発声訓練とやらが必要なのだろう」

おっと! 世の「良い演出」や「面白い演技」も確かにありましたことは事実です(笑)

そんな経験を経て、「演出」や「指導」に関して思うことが多くあります。
それは、演出者や(演技の)指導者に必要な能力です。

何より「客観性(冷静さ)」および「想像力(思いやり)」
そして「論理」と「科学」と「知識」(この3つが一番重要かも…)
さらには「(良い作品を書ける、あるいは他人の作品を良いものに書き換えられる)文章力」(これも演出としては結構重要です)
付けくわえるなら「情熱」(思いやりの強いヤツ)
(「経験」は時として邪魔になります)

「芸術性」などという説明不能なものは演出や指導者には不要ですな(笑)

さて、これからそれぞれについて説明を試みましょう。

1回目、まずは「文章力」です。
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演劇はセリフという言語行動と、行為という身体行動の2つで構成されます
そこで、まずはセリフ(言語行動)に限って考察を述べます。

セリフを「音」という物理現象にのみ重きを置いてしまうと「発声」に意識が向いてしまいます。
しかし、いまどきの公演会場はよほどのことがない限り「声が小さくて聞こえない」ということはあまりないと思います。
ですから私は「発声訓練」の必要性をあまり感じないのです。
せいぜい出演者の声量を揃えるくらいの必要性を感じる程度です。
もちろんあまりに発音が悪い場合は個別に訓練が必要かも知れません。しかし、日常生活において不都合なく話せているのなら、これもわざわざ訓練しなくていいでしょう。
ただ、ラジオドラマでの演技となると、これは「音声」(セリフ)しかないのですから、ある程度の発音の明瞭さは必要だろうと思います。
それでも登場人物が皆、アナウンサーやナレーターみたいな発音だと不自然ですよね(笑)

次に身体行動についてです。
ビジュアル表現を伴う「演劇」においては、これはセリフより重要です。
言語表現を伴わないダンスやパントマイムでも、人物の身体表現だけでその内面に思い至ることができます。
また日常生活でも「言葉」は嘘をつけやすいのですが、「身体」はなかなか嘘をつけません。
「身体は正直」なのです。学校や職場に行くのがイヤだったら体調が悪くなります(笑)

さて、ここからが本論の「文章力」についてです。

日本の演劇とその演出、および俳優の指導においては、あまりに「セリフ」に重きを置き過ぎだと思うのです。
私たちは演劇やテレビドラマや映画を見ますが、どれくらい作中の「セリフ」を覚えていますか?
ほとんど覚えていないでしょう??

よく覚えている(印象に残っている)のは、登場人物が何を「した」かということだと思います。すなわち「行為」を覚えているのです。
物語の「あらすじ」を振り返ってみれば、それとわかるはずです。

ところが演出や指導でセリフに重きを置き過ぎると、つい「大きな問題」を忘れてしまいがちになるのです。
それは「漢語の多用」です。

漢語というのは「音読み」のことです。
例えば「セイコウタンサイノゼンヤ」ってわかりますか?
これは「聖降誕祭の前夜」です。文字を見てもわからないかも知れませんが、「クリスマスイブ」と言えば今やほとんどの日本人がわかるでしょう。
同じ「クリスマスキャロル」(チャールズ・ディケンズ)の中で「スクルージはメイセンも惜しむ」という一節がありました。

メイセン??

変換してみますと、私のPCでは「銘仙」(織物の一種)しか出てきませんでした。
ところが文章を見ますと「冥銭」とありますが、文字を見てすら一瞬で意味がわかるかどうか疑問です。
どうやら日本でいうところの「三途の川の渡し賃」みたいなものでしょうか?

おっと、ちょうどいいですね!
「スクルージワ、メイセンモオシム」と言うより「スクルージワ、サンズノカワノワタシチンモオシム」と言ったほうが分かりやすくはないですか?

このように「耳慣れない言葉」や「意味がすぐにわかりにくい漢語」をセリフで使わないように心がけることが必要です。
だから私は「小説を原文のまま朗読する」ということに抵抗があるのです。
ところが演出者や俳優や朗読者は「台本」「原稿」を持ち、意味もわかっています。だから気にならないのでしょう。
しかし、聴いてすぐに意味が理解されないであろう言葉、語句はできるだけ「和語」(訓読み)に書き換えたほうがオーディエンス(観客、聴衆)に親切です。

また劇作家が皆、優れたセリフを書いているとは限りません。
これは小説においてもです。

演劇やラジオドラマや映像など、それぞれの表現媒体にふさわしいように文章が書けないといけないと思います。
演出者たるものには「文章力」(国語力)が必要だと思います。

〜つづく〜






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2019年06月30日

バカを再認識

私はお陰をもちまして、いろいろなところで演技その他の指導に当たることができています。
その場では、有名な声優、著名なナレーター、実績あるアナウンサー各位が指導に当たっておられます。
そういう有能かつ有名なかたがたと同じように指導に当たらせていただける状況は身に余る光栄です。
私は無名、無能、無力の三無主義…じゃなくて「三重苦」な人間です。

その中のある教育機関で、私は公演の演出を担当なさる有名声優さんの補助の任に就かせていただいております。
これだけでも恐れ多い事なのですが、いかんせん、私はバカなので演出の意図がさっぱりわからないのです(涙)

なぜそんな動きや段取りを指示するのか?
なぜそんな舞台装置なのか?
なぜそんな小道具が必要なのか?
なぜそんなセリフ表現を求めるのか?
なぜそんな衣裳なのか?
なぜそんな音響効果を良しとするのか?

どれも全くわからないバカな私です。

演出の意図を理解できない無能なので、受講生(生徒)の抱える問題にもちゃんと答えることができません。
それでも受講生(生徒)は、私に対してちゃんと「先生」と呼んで下さいますし、「先生、こういう場合はどうしたらいいでしょう?」と質問してもくれます。ありがたいことです!(感謝)

さりながら、なんともお答え申し上げることもできないのですぅぅぅ…(涙)
何しろバカなので演出意図が理解できないし、演出家の先生からは「余計なことを言って混乱させるな!」と釘をさされています。
「あなたは余計なことをしないで、スタッフワークの心配だけしていればいいのっ!」
とも言われています。

仄聞すれば、これまでの演出家先生たちは顔を合わせると「あいつ(私のこと)はダメだよね〜〜〜とんでもないヤツだよ〜」と互いに私の無能さを挙げてお笑いになっていらっしゃるそうです。
あ〜〜〜〜、もっとちゃんと勉強して「有名」になっておけばと悔やまれます。

でも、私が有名になるより、学生たちが「有意義」を感じて卒業してくれるほうがうれしいです(笑)
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2019年06月25日

人間は「過去」を忘れる

私は立場上、多くの「若者」に出会います。
その多くは「演技やナレーションや朗読などの指導の現場」です。
私は自分が経験してきたことを彼らの参考になればと思って話しています。

そして、彼ら若者は10代から20代の人たちです。
私にも当然そのような時代がありました。


昔、私がそのような若輩者の時、いわゆる「大人」が集うバーに入り浸っていたことがありました。
あまり具体的なきっかけになるエピソードはここでは言えませんが、大人たちが「酒を飲んで辛さを忘れる」ということが本当なのか…
本当にそうならそれ(酒)に頼りたいと、その頃は思っていたのでしょう。

するとある日、そのバーで同席していた見知らぬ年配者が私にこう言いました。

大人「おい、お前は大学生か?」
私「はい…ぃ……」
大人「けっ! 親の脛かじりが一人前にエエ気で酒を飲んどるんか? 何の苦労もせんとええ御身分やな(嘲笑)」
私「(言われてみればそうなので黙っていた)……」
大人「何の苦労も悩みもない、クソみたいなお前らがうらやましいわ!(嘲笑)」

私はもちろん言い返せませんでした。
ただ、「何の苦労も悩みもない」という言葉にはカチンと来たのは事実です。

歳とは関係なく、悩みや苦労のない人間などいない

と、思ったからです。(振り返れば、確かに恵まれていたのだろうとは思いますwww)

果たして、現在、歳をとってしまった私……

あの時の「大人」のようになっていないのかと自問する時があります。
それは先述した「指導の場」でです。
偉そうに、相手が自分より経験や知識の乏しいと思われる「若造」を見下していないか……

人間は「過去を忘れるもの」です。
明らかに自分より年下、あるいは自分より経験や知識の乏しいと思われる相手を私たちは見下していないか……
はたまたそれによって自分の優位を誇っていないか…

知識や経験は「後進に伝える」ものであって、「自分の優位を誇る」ものであってはいけないと思う、クソジジイです(笑)

「振り返ることの大切さ」(歴史)を無視してはいけません。

posted by 塾長 at 02:45| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月20日

見えない雲

昔、標題のラジオドラマに出演しました。
「ドイツの原子力発電所で、もし事故が起こったらという想定」で書かれたフィクションです。(原作:グードルン・パウゼバング「みえない雲」)
主人公はヤンナ‐ベルタという中学生の女の子です。

このドラマに出演した当時は旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原発の事故があり、その前にはアメリカのスリーマイル島原発の事故もありました。しかし日本ではまだそれらほど深刻な事故はなかったので、私もそういう事故をごくごく単に想像するしかない状況でした。
振り返ればその時の自分の「想像力のなさ」に忸怩たる思いです。

しかし、東日本大地震で福島第一原発の事故(事故?)があったことを踏まえてこの物語を読み返すと、生々しいリアリティを感じます。それでもやはり私自身は直接の被災者ではないので、やはり偉そうに物を言える立場にありません。

さて、物語の中でヤンナ‐ベルタの両親と祖父母が原発について議論するシーンがありました。
その中の言葉です。

祖父「ドイツの経済は今や原子力なしでは、やっていけないよ。それに、ドイツの原発はソビエトのとは違う。あんな事故は絶対起きないさ」

「ドイツ」を「日本」と読み換えると実感できます。当時私もこの「祖父」のように高をくくっていたと思います。
ヤンナ‐ベルタの両親はもちろんこの意見に対して「絶対安全と言うことは絶対に言えない」と反論します。
これらの議論に対して祖母はこう言います。

祖母「嫌、嫌。もうたくさん。一家団らんはもっと楽しい話題を選ばなくちゃ」

現実逃避とも言えますが、それも人間というものでしょう。

ほかにも様々な言葉と行動とエピソードが強烈なリアリティをもって私たちに迫って来ます。

すみません…
言葉が出て来ない…
物語の紹介だけしておきます…
posted by 塾長 at 22:02| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月15日

ムダをさせる役割がエンシュツカ?

ごく稀に舞台やドラマの演出を担当することがあります。(だいだい、5年に1回くらい)
でも、通常は、自分が演出を担当するのではなく、「演出家先生」のお手伝いをすることのほうが多いです。
そういうポジションはなんと言うのでしょうね…。
舞台監督でもないし、演出助手でもないし、ADやFD(これらはテレビか…)ではもちろんありません。

う〜ん、「アドバイザー(助言者)」が近いように思います。
舞台公演やAV作品制作(アダルトビデオではない)をするに当たって、演出から何かを尋ねられたら自分の知っている範囲で答えるということが多いので、やはりアドバイザーが適当ですね。
もちろん私にいわゆる「決定権」はありません(笑)
決定権を持っているのは演出家先生です。

さて、多くの演出家先生と一緒に仕事をしていると、どうにも疑問に思うことがあります。

@本番で使うかどうかわからない大道具を作らせる
A効果があるかどうか不明な衣裳を作らせる
B説明的な効果音を多く求める
C理由を言わずに作り直しを要求する
Dやはり理由のわからない演技表現や動きを求める

それぞれ説明しておきます。

@本番で使うかどうかわからない大道具を作らせる
いろいろと細かい注文をつけて製作させるのは構わないと思います。スタッフもその注文に応じるのが仕事でもありますからね?
さて、稽古が始まってからも手直し(修整)の要求が出るので、そのたびに作業を行います。そして、これが何度も続きます。
やがて本番前の仕込みをしてから「やっぱりカットする」と言われる。
どうして稽古中に、そして、手直しをさせる前に判断できないのか?
なんで「やっぱり」なのか??
徒労を命じるのは「刑罰」です。

A効果があるかどうか不明な衣裳や小道具を作らせる
舞台公演では観客と舞台の間の距離は結構あります。
映像ではアップもあって細かいところまで見えますが、舞台では、あまり細かいところは見えません。
だから舞台で使う「物(小道具)」は現実の物より少し大きめに作るのが原則です。また「現実の物」より、そのように「作った物」のほうが効果的な場合が多いのです。
なのに演出先生は演劇であるにもかかわらず「本物」を要求する。値段の問題ではなく「効果」の問題です。
舞台と映像は違います。

衣裳もそうです。
例えば「小紋」の着物などは舞台では「無地」に見えてしまうことがあります。だから例え「小紋」と言えど、「客席から見て小紋に見える着物」にするのが妥当でしょう。
衣裳も常に「客席から見てどうなのか」を考えるのが演出の仕事です。もし、演出にそれがわからないのなら衣裳担当スタッフにお任せしたほうが安全です。ところが演出先生は自分のことを「全能の神」と勘違いしているのか専門家の提言を認めない。

B説明的な効果音を多く求める
これに当たった音響担当や効果マンは大変です(笑)
ラジオドラマで多くあるのが「足音」の要求です。素人の脚本や演出では「SE 足音」というのが多い。
でも、ちょっと考えてみてください。私たちは日常生活でどれだけ「他人の足音」を意識的に聴いているでしょうか?
視覚障害者であればともかく、健常者はそれほど意識していないでしょう?
別に「足音のSEをつけるな」ということではありませんが、必要以上に「足音」をつけるとウルサくてしょうがない。
効果音はまさに「効果」的でないといけません。
これは音楽でもそうです。

昔、ある放送局のラジオドラマで効果音を担当したとき「蝶の羽音」を演出から求められてウンザリしたことがあります(笑)
一応は作りましたけど本番ではカットされていました。

C理由を言わずに、やり直しを要求する

これはナレーションでも多いです!
「はい、もう一回やってみよう〜」というやつです。
「噛んだ」とかアクセントを間違ったというのはナレーター自身もわかっていることが多いので、それはもちろんリテイク要求に応えます。
しかし、どこに問題があったか言わずに、あるいは「どこが問題だったかもわからない」演出の要求に応えるのは容易ではありません。
仕事では時間が求められます。
いくら時間をかけても良いということではないのですから、お互い「プロ」として問題点を共有することが大切です。

最近のCMで「ぬいぐるみ」の演出が俳優に「言い方チガウ〜」と言っているのがあります。
「アホ演出」というのはああいうのです(笑)

Dやはり理由のわからない演技表現や動きを求める
俳優に表現を求めるのは演出の仕事のひとつでしょう。
中にはすぐに意図のわからない演出もあります。もしそれが俳優に対する、あるいはスタッフに対する「教育」ならば良いかも知れません。
しかし、「教育」はそれなりの知見と体験と配慮のある人がすべきものです。
たまたま手に入れた立場(演出)にあぐらを掻いて「理不尽」(理由を尽くさない)をやっていいものではありません。
出演者やスタッフはもちろん、最終的には観客にもその「理由」が理解される表現を要求しないといけません

以上、私が多くの演出家先生に接してきて感じた疑問です。
ほかにもいっぱいあるのですが、今回はこれにて…





ラベル:無駄  演出
posted by 塾長 at 22:53| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月13日

誠に〜遺憾に〜ソンじ〜ます〜

コカインという違法薬物の使用で某タレントが逮捕されたそうです。
幻覚などを引き起こす有害な薬物と言うのは依存性が高くてよろしくないそうですね。
まあ、人間と言うのは弱い生き物で何かに依存したくなることもあるでしょう。
かくいう私などもアルコールとニコチンにイソン……あれ? イゾン……あれれ?…どっちやったかな…?

さて、ここで問題です。
「存」という字は「ソン」とも「ゾン」とも読みますね?
皆さんは次の「存」をどう読まれますか?

依存
異存
共存
存在
存念
現存
残存



私は上から…
ソン
ゾン
キョウソン
ソンザイ
ゾンネン
ゲンソン
ザンソン


問題になるのは最初の「依存」ではないでしょうか?
今回のニュースでもよく出てくる言葉ですね。
私もナレーション時にこの「依存」を読むことがあります。

また「世界との共存共栄を願いながら…」などというフレーズを読むことがあります。
私はこの場合もちろん「キョウソンキョウエイ」と読みます。
ところが某社のナレーションでは、この場合「キョウゾンキョウエイ」と読まないと、即時スポンサーに激怒されます(笑)
「違う違う! 間違いだよ! キョウゾンだよ! 何やってんだよ!」
という具合です。
調べてみると、その会社の創業者が「そう読んでいた」らしいのです。
社員の皆さんは創業者を尊重して「これはキョウゾンだ! うん、ゾンだよ!」と言う風に決めたのでしょうね。

でも、やはり元々というか、正しくは「キョウソン」だったことでしょう。
今は局のアナウンサーや国語の教師でも「キョウゾン」と読む人がいることでしょう。

漢字の読み方、書き方(文字)、そして意味やアクセントも時とともに変化していきます。
「言葉は生き物だ」というのはそういう事実を指しているのでしょうね。

でも、後発の事実をもって「お前は間違っている!」と決めつけるのはやめてくれないかなぁ〜。



posted by 塾長 at 23:49| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月06日

やれるからやる

「やれるんだからやっていいじゃないか」という考え方が巷間に広まってしまった感があります。

人によっては「自分は何だってやれるんだから」と勘違いした立場の人が、「自分は、やっていい」と自らの正当性を臆面もなく表明する人もいます。
「物事を決められない組織はダメだ」と言って「決められる組織にする」と声高に言う人もいます。
そりゃ多くの意見や都合を聴いていたら決めたいことでも決められないことはあるでしょう(笑)
でも、それこそが民主主義というものの宿命であり、長所であり、同時に欠点でもあるのでしょう。
すなわち「決められる組織にする」という人の本音は「自分だけで決める」ということなのかも知れません。
そりゃ他人の意見を聞かずにいられるのだから自分ひとりで決められますわね(笑)
こういうのを「独裁」と呼びませんか?
この国では今や「独裁者」が多くいます。
親が子を殺すのもそれではないでしょうか?

でも、「やれるけどやっちゃいけない」という心のほうが大事なようにも思います。
この国はいつの間にか「それはやっちゃいけない」という誇りや恥の心が失われてしまったように思います。
「美しい国」の定義は何なのでしょうか?

やれるけどやっちゃいけないことを心に刻む
やれないかも知れないけれど他者の幸せのためにやらねばならないことがある
やりたいけれどやっていいのかどうか自らの良心に問う

以上のことは「仕事」でも言えるのではないかと私は思っています。
俳優や声優の仕事でもこれは言えると思います。

やりたい(欲求)
やれる(技術)
やらねばならない(責任)

プロの俳優や声優にとっての優先順位で言えば【欲求<技術<責任】ではないかと思います。
つまり「プロ」にとって最も大切なものは「責任」だというのが私の主張です。
この国はあまりに「責任」を軽んじる国になってはいないでしょうか?

まあ、「ミミズの戯言」ですが…
posted by 塾長 at 00:24| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月03日

ちょっと譲ると…

昔、私がファンだった野球チーム(仮にTとしておきます)が日本シリーズに出場しました。
相手のチームは仮にLとしておきます。
当時のTは同じ監督で前々年にも優勝しており、ひいき目ながら強いチームだという印象を持っていました。

さて、日本シリ−ズ前には監督同士の打ち合わせみたいなものがあります。
主にルールの部分でのすり合わせのためでしょう。

するとLの監督がTの監督に提案したのです。
「互いに予告先発をしませんか? うちのリーグではやっていますよ」
当時、Tの所属するリーグでは予告先発はなかったのですが、Tの監督は余裕があったのかその提案を了承したのです。

私はそのニュースを見て「まずいぞ!」と思いました。
先発投手を事前に明かし合うことはどうでもいいのですが、Tの監督が「相手の言い分を丸呑みにする」ということに危機感を持ったのです。
つまりまず初手から「相手にコントロールされている」ということになるのが問題なのです。

これが原因ではないでしょうけれど、シリーズでTはLに完敗しました。

何事によらず「それくらいならいいじゃないか」と相手に譲ることはよくあります。
ただ、その先に何が起こるかは常に考え、想像しておかないといけません。
ささいな譲歩はやがて取り返しのつかない事態につながる可能性があるということです。
posted by 塾長 at 12:53| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月11日

プロとアマ

どんな業界にも「プロフェショナル」「アマチュア」がいます。
仄聞したところシャーロック・ホームズは捜査の「アマチュア」だそうですね?
なんでも本業は不動産屋さんだとか?
でも、推理に関してはプロフェショナルである警官より凄腕なんですね。
南方熊楠によれば「イギリスではアマチュアが評価される」とのことです。

確かに私のいる業界でも、ナレーションや吹き替えや演技に関して「抜群にうまいアマチュア」はいます。いやいや、私なんか足元にも及ばないくらいウマイ人がいるのは事実です。
ただ、その人にとっての優先順位が問題なのです…。

テレビCMやドラマなどに出演している子役と言うのは「プロフェショナル」です。
子供には学校や塾がありますが、テレビ、ドラマ、映画というのはそんな時間はお構いなしにスケジュールが組まれます。それはわざとではなく、ほかの出演者その他の様々な都合を勘案した結果なのです。
だから子役は、たとえその仕事の時間が学校時であっても塾の時間であってもそれを後回しにして「出演」を優先させます。これがこの業界のプロなのです。ですからよほどの事情が無い限り、この業界では「子供と言えどもプロを起用する」ということになります。
なぜならアマチュアは「出演」より優先順位の高いもの(授業や塾や習い事)があって、いざというときにそれらを優先させてしまう可能性があるからです。
この業界では「アマチュアを起用する」というのは相当な冒険です。
なぜなら、いざ本番というときに「すみませ〜ん、行けなくなったんです〜」と言いかねないからです(笑)
むかし、ある専門学校で指導していた時、できるだけこの業界を体験させてやろうと思って専門学校生に出演する機会を成立させたことがありました。(もちろんギャラつきで…)
ところが収録当日に現場に来ていないという連絡がありました。
学校を通じて本人に連絡してもらうと、その電話で「いま起きた〜」とのこと(汗)

あわてて現場に直行し、スタッフや制作に頭を下げて回りました。
しかし、現場では私に怒りをぶつけたりはしません。そこは「プロ」ですね〜〜〜。
その代わり、その制作会社からの仕事は来なくなりましたwww。

また先日、ある人にアテレコ(吹き替え)の仕事が発注されたので動きました。
その人にはあるアニメ作品に出演してもらったのです。そこでまた同じ役で出演依頼があったのです。
「ヤバイな〜〜〜」
と思いながら連絡がやっと取れてみると、思いのほか本人も喜んで「ぜひ出演したい」とのご返事です。これにはホッとしましたが、「別な仕事をやっていて出演できるかどうかわからない」というではありませんか。そこでスケジュールの調整をお願いしました。すると…
「なんとか収録日には休みが取れると思う」「きっと大丈夫だが100%ではない」
というご返事です。
これには困りました…
「思う」「100%ではない」という返事にOKは出せないのです…(涙)

結局、同じ役で発注してくださった制作会社にはお詫びを申し、声優本人にもお詫びを言って、別な声優を提案することにしました。
幸い、この第2の声優のスケジュールが確定できたので事なきを得ました。

これからプロの俳優、声優、ナレーターになろうとする人に申し上げたい。
ほかの仕事と同じく、この業界でも

「技術はともかく、責任を持って仕事に取り組める人がプロなのです」

学校の授業を休んだり、レッスンを休むような人はアマチュアですな(笑)

posted by 塾長 at 18:25| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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