2018年8月からしばらく閉講します。 また年度変わりに受講生を募集してみます。

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2020年06月12日

「づぼらや」の思い出(もう「時効」でしょ?)

「づぼらや」が閉店するようです。
私はフグのあのプロポーションと皮の模様が苦手で、子供のころはフグを食べませんでした。
青年期になると、いろいろなことに慣れたのか、フグも食べられるようにはなりましたが、現在は「高価」なので食べられません(笑)

さて、大阪のフグ料理の老舗「づぼらや」が閉店することになったそうです。
そのニュースを聞いて、思いだしたことがあります。

あれは高校の卒業式の後でした…いったい何年前のことでしょう…

私達の高校は、多くの生徒のターミナルが天王寺だったのですが、式後に到着すると、クラスのほとんどの生徒が一緒にいました。
「あれ? みんなで天王寺に着いたことなんてあったかな?」という思いがしました。

そして、皆で別れが惜しくて、「密」になっていました(笑)
私は情愛に乏しいのか、さっさと帰ろうとすると同じクラスのTが私のところに来て言いました。

「おい、お前、このあたり地元やろ? みんな帰りたくないみたいやから、これだけの人数が入れる喫茶店とか、店を知らんか?」

喫茶店で40名も入れるような店は、私も知りません。
それに皆、学生服、セーラー服ですからね…

そこで思い当たりました。
天王寺だったら「新世界」まで歩いても10分程度…
そや!

「ほな、【新世界のづぼらや】はどうや?」

今から思えば「突拍子もない提案」でしょう(笑)
ですが、Tを始め、皆が私の提案に従う事になりました。
天王寺から新世界まで、ぞろぞろと40人もの制服姿の高校卒業生が歩いているところを想像したら笑えますね!

T「おい…新世界って…あぶないんとちゃうんか?」
私「あぶない?…いいや」
T「酔っ払いとかおるて聞いてるんやけど、あぶないことないんか?」
私「あ〜、酔っ払いは、酔っ払いやから、酔うててその辺に寝ころんでるだけやから危なくないで(笑)」
T「警察とか来(け)えへんのか?」
私「警察(浪速警察署)は近くにあるから、なんかあったらすぐ来てくれて安全やで」
T「けど【づぼらや】って、酒も出すんやろ?」
私「ほらあ、酒もあるで」
T「俺ら、高校生やから、酒飲んだらマズイやんけ」
私「あ〜、そらぁそうかも知れんけど、新世界は【治外法権】やからひょっとしたら大丈夫ちゃうか? 俺なんか中学の時から新世界でパチンコやってたし(笑)今はアベノでやってるけど(笑)」
T「【づぼらや】に行ったら入店交渉してくれるか?」
私「入店交渉なんか要るんかな? まあ、それは…やるで。けど、いっぱいやったら断られるかも知れんな。まあ、その時に考えよ」

と、道中、Tとこんな会話をしながら【づぼらや】に到着しました。
店の人に事情を話すと、「空いているから、よろしおまっせ」とのこと。
高校生の男女40名は無事入店し「てっちり」を食べることになったのです。(高校生だけで「てっちり」!!!!)
この時は「本店」ではなく、本店の向かえにあった、広い「別館」だったと思います。
長いテーブルのある座敷に40人の「高校生男女」が「てっちり」をつついて思い出話に花を咲かせることができました。
と、途中で日本酒が何本か運ばれてきました!

私「おい! 誰や! 酒、頼んだんは!」(高校生の飲酒は、いくら治外法権でもマズイ!)

すると、Tが、

T「俺、俺! え? 足らん? すんませ〜ん、お酒〜追加〜!」

おいおい!
こうして制服姿の男女40名による宴会は「飲み宴会」になりました。
タバコを吸い始めるヤツもいて、いくら【治外法権】とは言え、ヒヤヒヤしたのは言うまでもありません。
「浪速警察に通報するヤツがおるかも知れん。そうなったら…なんとかするで!」

ところが、店の人も注文されたら当たり前に酒を運んで来ますし、タバコも酒も、ほかの客が見とがめるものはありませんでした(笑)
【治外法権】というか…ノンビリした時代だったと言えるでしょう。

そのうち、誰が連絡したのか、ほかのクラスの生徒も何人か合流して来ました。
彼らはいくつかの大学の合格発表を見て来た連中でした。

Y「おい、A、お前合格してたわ!」
A「よっしゃ! やった〜〜〜!!(全員、拍手)」
S「私は? 私は?」
K「サ・ク・ラ……咲くぅ〜〜〜〜〜!!!」
S「キャ〜〜〜〜〜ッ!!(全員、拍手)」

こんな具合です。
いやはや、もうなんと申しましょうか…
でも、酒やタバコはありましたが、喧嘩や悪酔いする者もいなくて、ちゃんと清算もして、2時間ほどで無事に皆で【づぼらや】を出ました。
「子供じみた振る舞い」というのは、当時の高校生にとっては「恥」だったと言えると思います。
もちろん当時の高校生らしく「みだらな行為」などもありませんでした。
警察も来ませんでした。

【づぼらや】さん、あの時はありがとうございました!!
あの時代であったことを感謝します。
「復活」してくれぇ〜〜〜〜〜!!



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2020年03月15日

追悼:別役実

とうとうこの日がやってまいりました。
別役実氏を追悼いたします。

いつぞやのブログにも書いたかも知れませんが、私は「別役実作品」が苦手でした。
かつて、大阪の劇団はこぞって「別役作品」を上演していた時期がありました。
当時所属していた劇団や俳優の間でも「別役〜、ベツヤク〜、べ〜つ〜や〜く〜〜〜!!」とうるさかったものです。
同氏の名前こそは知っておりましたが、恥ずかしながら実際に上演作品を見たことがなく、その作品を読んだこともない私でした。


ところが自分と養成所で同期だった俳優が「別役作品」に出演するというので、義理もあって、初めて観劇に行きました。
すると「妙に間の多い、もっちゃり〜ねっとり〜とした舞台」でした。
「有名な劇作家の作品は見ておかねばならない」と思って出参した次第ですが、いやはやなんともはや………
あまりに「妙な間」が多すぎて、体調を崩しました(笑)

「これが新劇というものか?」とその場は自分を納得させないとしょうがなかったのですが、「こんなつまらん、妙な作品をやるのが新劇というものなら、子役として出演していた商業演劇のほうがまだマシかも知れない」と思ったのは事実です。

その後も同期の俳優から「別役作品」へのお誘いがありましたが、会場までの道中で体調が悪くなり、会場に行きつく前に帰宅したことも何度かあります。私にはどうも「別役作品」を理解する能力がないのかも知れないと思ったのは事実です(笑)

さて、その後、劇団を辞めることになって、他劇団から出演依頼がありました。
それも「別役作品」だったのです。
確か「とうめいなすいさいが」という作品でした。

「これはなんとしてでも別役作品に取り組まねばならない」と思って台本を読みました。
すると…

男A「こんばんは…」
男B「こんばんは…」

とあるではありませんか!

その時に理解したのです。
別役作品では、ほとんどのセリフの末尾に「…」があるのです。
あ〜〜〜これは〜〜〜〜〜!
劇団(特に「新劇」をやっているところ)はセリフを偏重します。そういう演劇では「…」を物理的な「無言の間」と捉えます。
だから別役作品では「妙な間」ばっかりになってしまうのです。

しかし、私は違う解釈を持っています。
セリフというのは取りも直さず「心の発露としての言語」です。しかし、人間には「わざわざ言葉として発しない思いや考え」があるはずなのです。それが「…」ではないでしょうか?
別役氏はそれを台本に書き表したかったのではないかと愚考します。
もし、この仮説が正しければ、「普通に会話せよ」というのが別役氏のメッセージではないでしょうか?
さらに「セリフを発言するときには、『言葉にならない思い』を持ちなさい」ということではないかと思います。

やはり演技と言うものは「人間とは何か」を探求する行為だと思います。

間違っていたらゴメン!!
なにせバカなので…   (おっと、やっぱり「…」が付きましたwww)

【私が演出した別役作品】(いずれも別役氏ご本人および著作権管理団体から上演許可取得済み)
●「卵の中の白雪姫」
●「歌うシンデレラ」
●「受付」
●「死体がひとつ」(「絶望居士のためのコント」より)



posted by 塾長 at 02:16| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月08日

演出や指導者に必要なもの 4〜情熱(思いやりの強いやつ)〜

何をもって「情熱」とするかはむずかしいですね〜。

●自分が演じたり、自分が演出する作品をやりたくてしょうがない。
●出演者やスタッフを育てたい。
●どうしてもこの作品を世に出し、知らしめたい。
etc,etc.

何に「情熱」を傾けるかは人によっても状況によっても変わるでしょう。

「演劇」というものには「三位一体の法則がある」と聞いたことがあります。
つまり、「演劇」に欠かせない要素のことなのです。
曰く、

「観客」(作品を享受する人)
「演者」(作品を演じる人)
「空間」(作品を享受する人と演じる人の共有空間)

いずれか一つが欠けても「演劇」は成立しないというわけですね。
これはほかのメディアでも通用する考え方だと思います。

私が演出するときもこれら3つのことを考えます。

なによりも観客やリスナーに喜んでいただかないといけないでしょう。
今年のように感染症のリスクがある場合はそれにも注意を要します。

面白い作品を提供するための努力としては、演者やスタッフにあらゆる意見を求めます。
「そのセリフで意味が観客にわかるか? 書き換えた方が良いか?」
「音の入るタイミングはそれで良いか? もっと効果的な音や入れ方はあるか?」
「照明の明るさや角度はそれで良いか? もっと良い方法はあるか?」
etc.etc.

もちろん常に演者やスタッフが自分の意見や疑問を口にしやすい環境と雰囲気を作ることにも留意はしているつもりですが、十分かどうかはわかりません(笑)

また受付その他、お客様と直接関わるスタッフにも指導と配慮が必要です。
言葉遣いや態度はもちろん、現在のような環境ならばマスクの配布や手指の消毒液を用意するとか、さまざまな場所の清拭も指示しないといけないでしょうね。さらにはイベントの中止も考慮しないといけなくなるかも知れません。

演者やスタッフについては、さきほど創造的な部分での主体性を重んじることに留意はしていますが、「無理をさせていないか」「理不尽な指示をしていないか」「指示をし忘れていることはないか」という反省が常に必要でしょう。

共有空間となる劇場やスペースの都合も考慮しないといけません。
使いにくいからとか自分のやりたいことを優先させて会場に無理をさせてはいけませんね。「無茶を言うのが演出」ではないと思います。

「関係する3つの要素を常に大切にする」という考えが重要ではないかと思います。
教育の現場なら「生徒と保護者」「指導する先生」「現場である学校」それら3つですね。
コンビニなどだったら「お客様」「商品」「販売店(お店のオーナー)」でしょうか?
もちろんもっとディテールに分けることもできますが、いずれかひとつが優先されたり、逆に置き去りにされないように留意すれば良いのではないかと思います。

posted by 塾長 at 15:35| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月23日

演出や指導者に必要なもの 3〜論理・科学・知識〜

私は演技や、その表現には「論理」が必要だと思っています。
「論理」というのは「理由」(=なぜ?)を出発点として「手段」(=行為)に至るものではないでしょうか?
「なぜこうなのだろう?」(理由)という疑問から始まって「それを確かめてみよう」(=手段)に展開するものだということです。
それはどんな学問でもそうでしょう?
まずは「疑問」から始まります。
だから私は、私に指導を受ける人には「まず疑問を持ちなさい」と説きます。

余談ながら、皆さん、ご自分の子供のころを思い出してください。
親に「なんで?」「どうして?」と訊いていませんでしたか?
大人は最初のうちは「それはな…」と答えてくれていましたが、そのうち…

「なぜでも! なんででも! そんなこと考えなくていいの!」

と言い始めます。
こどもがおとなへの道を歩み始めるのはこの時なのです(笑)
「なぜ」を問う子供は「人間とは何か」を探ろうとする研究者なのかも知れません。
それに対して「そんなことを考えなくていい」というのが「おとな」なんでしょうね。
学問を放棄する人間、物を考えない人間、他人の自由を奪い服従をさせたがる人間、それが「おとな」なのかも知れません(笑)

世間の「演出家先生」を見ていると「自分に疑問を持たない人」が多いように思います。
しかし、私は「人間の中で一番信用ならないのは自分という人間である」と思っているんです(笑)
つまり世間の「演出家先生」には「疑問」がないのでしょう。

疑問がないというのは科学的な状態ではないでしょう。

私のように演技のことしか知らない人間(実は「知っている」とも言い難いwww)でも、いっぱい疑問はあります。
「なぜ、アイウエオという順番なのか?」
「なぜ、私たちは母音を発音し分けられるのか?」
「なぜ、関西弁と関東弁はアクセントが違うのか?」
「なぜ、上手(かみて)や下手(しもて)というのか?」
「なぜ演劇で俳優は客席に自分のお尻を向けてはいけないのか?」
「発声訓練とはなんだろう? そもそもそれは必要なのか?」
etc,etc.…

いずれも客観的な事実や歴史や都合があったと思うのです。また、人間の生理機能や精神行動もあったと思います。それらは科学的な見地で解明して見るべきではないでしょうか?
ましてや発声と言う「生理機能」を考慮して実施しなければならない訓練なのに、人間の体について調べたこともないというのは「無免許運転」です(笑)
おそらく「教習所」にも行っていないドライバーでしょう。

先生方、自分の頭で疑問を持ち、それを自力で解明してみてください。
そうすればそれが結局は「誰かからの受け売りではない、自分の知識」につながります。

演出をなさる先生には、ぜひ
「あらゆることに疑問を持って」
「その疑問を解明する努力をして」
「舞台知識を得た上で、展開すべき演出を工夫」
してほしいと思います。

バカからのお願いです!

posted by 塾長 at 07:29| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月14日

演出や指導者に必要なもの 2〜客観性と想像力〜

演出は「演技指導者」である必要はありません。
いや、中途半端な演技しかできないなら、むしろ邪魔ですらあると思います。
なぜなら俳優の演技が自分の思っているものと違っていたら「見本」を見せてしまいがちだからです。こういうのは「踊る演出」と言います。
セリフの言い方を決めてしまったり(口伝)、動きを決めてしまったり(振付)というような演出です。

私も元来演技者なので、演出時につい「見本」をやってしまいそうになりますので、できるだけ我慢します(笑)
見本をやってしまうと俳優はその物まねをするだけで演技をしたことになります。これは俳優を「操り人形化」する演出です。絶対にやってはいけないと言っても過言ではないでしょう。

演出は「本番まで舞台を見ることが無い観客の代理」です。
その演技で観客に意味が伝わるか、その発声で観客に言葉が伝わるか、観客はこの場面で何を見たいか、などという「客観性」が必要です。文字通り「客が観る」のですからね。
演出だけが意味をわかっているというのではダメなのです。
ところが演出や俳優は「わかってしまっている」ことが多いので、つい「客観性」を失いがちです。
だから私は演出時には俳優はもちろん、さまざまなスタッフにも意見を求めます。

「このセリフで意味がわかるか」
「このシーンの意味が伝わるか」
「どこか意味不明なところはないか」
「そもそもこのシーンは面白いのかどうか」etc.

そのように他者に意見や感想を求めることで、俳優もスタッフも「人ごと」で済まなくなり、全員がその作品に主体的に取り組めるようになることが多いのです。

演出は神様でも芸術家でもなく、調整係であるべしというのが自論です。
(これは会社などでも言えることでしょうね)

さて、以上のことにも関係するのですが、演出や指導者は俳優やスタッフやレッスン生(学生など)の気持ちや事情に思いを致さなければいけないと思います。
自分のダメ出し(できればこの言葉をやめて「オーダー」とか「提案」とか「助言」「意見」がいいですね)がちゃんと俳優やスタッフに伝わっているかを考えないといけないということです。

「無理な注文をしていないか」
「無駄な努力をさせていないか」
「演出の指示に納得できているかどうか」
「何か困っていることはないか」etc.

いわゆる「想像力=思いやり」がリーダーたる演出担当には必要だろうと思います。
いくら有能でも、思いやり(想像力)のないリーダーではメンバーからの信頼を得られません。
(これも会社などで言えることですね)

〜つづく〜


posted by 塾長 at 14:25| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月05日

演出や指導者に必要なもの 1〜文章力〜

私はもともと「演出」をしたくて演劇の世界にやってきたのですが、未だに「演出」をやったことはそう多くはありません。

舞台演出:15回(作品)くらい
朗読劇演出:10回(作品)くらい
ラジオドラマ演出:(回数で言うのは難しいのですが)10回くらい
ラジオ番組演出:(これも回数で言うのは難しいのですが)20回くらい
上演台本執筆:5作品くらい

振り返ればむちゃくちゃ少ないですね(笑)

でも、幸いなことにいろいろ勉強させてもらいました。
「勉強」と言うのは、良いものに触れることも大切ですが、悪いものに触れることのほうが有益なように思う今日この頃です。劇団員時代から今までもそうでした。

「なんでこの演技はつまらないのだろう?」
「なんでこの演出者はこんなヘンなことを俳優にさせるのか?」
「この作品が面白くないのはなぜだろう」
「なぜ俳優に発声訓練とやらが必要なのだろう」

おっと! 世の「良い演出」や「面白い演技」も確かにありましたことは事実です(笑)

そんな経験を経て、「演出」や「指導」に関して思うことが多くあります。
それは、演出者や(演技の)指導者に必要な能力です。

何より「客観性(冷静さ)」および「想像力(思いやり)」
そして「論理」と「科学」と「知識」(この3つが一番重要かも…)
さらには「(良い作品を書ける、あるいは他人の作品を良いものに書き換えられる)文章力」(これも演出としては結構重要です)
付けくわえるなら「情熱」(思いやりの強いヤツ)
(「経験」は時として邪魔になります)

「芸術性」などという説明不能なものは演出や指導者には不要ですな(笑)

さて、これからそれぞれについて説明を試みましょう。

1回目、まずは「文章力」です。
--------------------------------------
演劇はセリフという言語行動と、行為という身体行動の2つで構成されます
そこで、まずはセリフ(言語行動)に限って考察を述べます。

セリフを「音」という物理現象にのみ重きを置いてしまうと「発声」に意識が向いてしまいます。
しかし、いまどきの公演会場はよほどのことがない限り「声が小さくて聞こえない」ということはあまりないと思います。
ですから私は「発声訓練」の必要性をあまり感じないのです。
せいぜい出演者の声量を揃えるくらいの必要性を感じる程度です。
もちろんあまりに発音が悪い場合は個別に訓練が必要かも知れません。しかし、日常生活において不都合なく話せているのなら、これもわざわざ訓練しなくていいでしょう。
ただ、ラジオドラマでの演技となると、これは「音声」(セリフ)しかないのですから、ある程度の発音の明瞭さは必要だろうと思います。
それでも登場人物が皆、アナウンサーやナレーターみたいな発音だと不自然ですよね(笑)

次に身体行動についてです。
ビジュアル表現を伴う「演劇」においては、これはセリフより重要です。
言語表現を伴わないダンスやパントマイムでも、人物の身体表現だけでその内面に思い至ることができます。
また日常生活でも「言葉」は嘘をつけやすいのですが、「身体」はなかなか嘘をつけません。
「身体は正直」なのです。学校や職場に行くのがイヤだったら体調が悪くなります(笑)

さて、ここからが本論の「文章力」についてです。

日本の演劇とその演出、および俳優の指導においては、あまりに「セリフ」に重きを置き過ぎだと思うのです。
私たちは演劇やテレビドラマや映画を見ますが、どれくらい作中の「セリフ」を覚えていますか?
ほとんど覚えていないでしょう??

よく覚えている(印象に残っている)のは、登場人物が何を「した」かということだと思います。すなわち「行為」を覚えているのです。
物語の「あらすじ」を振り返ってみれば、それとわかるはずです。

ところが演出や指導でセリフに重きを置き過ぎると、つい「大きな問題」を忘れてしまいがちになるのです。
それは「漢語の多用」です。

漢語というのは「音読み」のことです。
例えば「セイコウタンサイノゼンヤ」ってわかりますか?
これは「聖降誕祭の前夜」です。文字を見てもわからないかも知れませんが、「クリスマスイブ」と言えば今やほとんどの日本人がわかるでしょう。
同じ「クリスマスキャロル」(チャールズ・ディケンズ)の中で「スクルージはメイセンも惜しむ」という一節がありました。

メイセン??

変換してみますと、私のPCでは「銘仙」(織物の一種)しか出てきませんでした。
ところが文章を見ますと「冥銭」とありますが、文字を見てすら一瞬で意味がわかるかどうか疑問です。
どうやら日本でいうところの「三途の川の渡し賃」みたいなものでしょうか?

おっと、ちょうどいいですね!
「スクルージワ、メイセンモオシム」と言うより「スクルージワ、サンズノカワノワタシチンモオシム」と言ったほうが分かりやすくはないですか?

このように「耳慣れない言葉」や「意味がすぐにわかりにくい漢語」をセリフで使わないように心がけることが必要です。
だから私は「小説を原文のまま朗読する」ということに抵抗があるのです。
ところが演出者や俳優や朗読者は「台本」「原稿」を持ち、意味もわかっています。だから気にならないのでしょう。
しかし、聴いてすぐに意味が理解されないであろう言葉、語句はできるだけ「和語」(訓読み)に書き換えたほうがオーディエンス(観客、聴衆)に親切です。

また劇作家が皆、優れたセリフを書いているとは限りません。
これは小説においてもです。

演劇やラジオドラマや映像など、それぞれの表現媒体にふさわしいように文章が書けないといけないと思います。
演出者たるものには「文章力」(国語力)が必要だと思います。

〜つづく〜






posted by 塾長 at 09:53| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月30日

バカを再認識

私はお陰をもちまして、いろいろなところで演技その他の指導に当たることができています。
その場では、有名な声優、著名なナレーター、実績あるアナウンサー各位が指導に当たっておられます。
そういう有能かつ有名なかたがたと同じように指導に当たらせていただける状況は身に余る光栄です。
私は無名、無能、無力の三無主義…じゃなくて「三重苦」な人間です。

その中のある教育機関で、私は公演の演出を担当なさる有名声優さんの補助の任に就かせていただいております。
これだけでも恐れ多い事なのですが、いかんせん、私はバカなので演出の意図がさっぱりわからないのです(涙)

なぜそんな動きや段取りを指示するのか?
なぜそんな舞台装置なのか?
なぜそんな小道具が必要なのか?
なぜそんなセリフ表現を求めるのか?
なぜそんな衣裳なのか?
なぜそんな音響効果を良しとするのか?

どれも全くわからないバカな私です。

演出の意図を理解できない無能なので、受講生(生徒)の抱える問題にもちゃんと答えることができません。
それでも受講生(生徒)は、私に対してちゃんと「先生」と呼んで下さいますし、「先生、こういう場合はどうしたらいいでしょう?」と質問してもくれます。ありがたいことです!(感謝)

さりながら、なんともお答え申し上げることもできないのですぅぅぅ…(涙)
何しろバカなので演出意図が理解できないし、演出家の先生からは「余計なことを言って混乱させるな!」と釘をさされています。
「あなたは余計なことをしないで、スタッフワークの心配だけしていればいいのっ!」
とも言われています。

仄聞すれば、これまでの演出家先生たちは顔を合わせると「あいつ(私のこと)はダメだよね〜〜〜とんでもないヤツだよ〜」と互いに私の無能さを挙げてお笑いになっていらっしゃるそうです。
あ〜〜〜〜、もっとちゃんと勉強して「有名」になっておけばと悔やまれます。

でも、私が有名になるより、学生たちが「有意義」を感じて卒業してくれるほうがうれしいです(笑)
posted by 塾長 at 01:01| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月25日

人間は「過去」を忘れる

私は立場上、多くの「若者」に出会います。
その多くは「演技やナレーションや朗読などの指導の現場」です。
私は自分が経験してきたことを彼らの参考になればと思って話しています。

そして、彼ら若者は10代から20代の人たちです。
私にも当然そのような時代がありました。


昔、私がそのような若輩者の時、いわゆる「大人」が集うバーに入り浸っていたことがありました。
あまり具体的なきっかけになるエピソードはここでは言えませんが、大人たちが「酒を飲んで辛さを忘れる」ということが本当なのか…
本当にそうならそれ(酒)に頼りたいと、その頃は思っていたのでしょう。

するとある日、そのバーで同席していた見知らぬ年配者が私にこう言いました。

大人「おい、お前は大学生か?」
私「はい…ぃ……」
大人「けっ! 親の脛かじりが一人前にエエ気で酒を飲んどるんか? 何の苦労もせんとええ御身分やな(嘲笑)」
私「(言われてみればそうなので黙っていた)……」
大人「何の苦労も悩みもない、クソみたいなお前らがうらやましいわ!(嘲笑)」

私はもちろん言い返せませんでした。
ただ、「何の苦労も悩みもない」という言葉にはカチンと来たのは事実です。

歳とは関係なく、悩みや苦労のない人間などいない

と、思ったからです。(振り返れば、確かに恵まれていたのだろうとは思いますwww)

果たして、現在、歳をとってしまった私……

あの時の「大人」のようになっていないのかと自問する時があります。
それは先述した「指導の場」でです。
偉そうに、相手が自分より経験や知識の乏しいと思われる「若造」を見下していないか……

人間は「過去を忘れるもの」です。
明らかに自分より年下、あるいは自分より経験や知識の乏しいと思われる相手を私たちは見下していないか……
はたまたそれによって自分の優位を誇っていないか…

知識や経験は「後進に伝える」ものであって、「自分の優位を誇る」ものであってはいけないと思う、クソジジイです(笑)

「振り返ることの大切さ」(歴史)を無視してはいけません。

posted by 塾長 at 02:45| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月20日

見えない雲

昔、標題のラジオドラマに出演しました。
「ドイツの原子力発電所で、もし事故が起こったらという想定」で書かれたフィクションです。(原作:グードルン・パウゼバング「みえない雲」)
主人公はヤンナ‐ベルタという中学生の女の子です。

このドラマに出演した当時は旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原発の事故があり、その前にはアメリカのスリーマイル島原発の事故もありました。しかし日本ではまだそれらほど深刻な事故はなかったので、私もそういう事故をごくごく単に想像するしかない状況でした。
振り返ればその時の自分の「想像力のなさ」に忸怩たる思いです。

しかし、東日本大地震で福島第一原発の事故(事故?)があったことを踏まえてこの物語を読み返すと、生々しいリアリティを感じます。それでもやはり私自身は直接の被災者ではないので、やはり偉そうに物を言える立場にありません。

さて、物語の中でヤンナ‐ベルタの両親と祖父母が原発について議論するシーンがありました。
その中の言葉です。

祖父「ドイツの経済は今や原子力なしでは、やっていけないよ。それに、ドイツの原発はソビエトのとは違う。あんな事故は絶対起きないさ」

「ドイツ」を「日本」と読み換えると実感できます。当時私もこの「祖父」のように高をくくっていたと思います。
ヤンナ‐ベルタの両親はもちろんこの意見に対して「絶対安全と言うことは絶対に言えない」と反論します。
これらの議論に対して祖母はこう言います。

祖母「嫌、嫌。もうたくさん。一家団らんはもっと楽しい話題を選ばなくちゃ」

現実逃避とも言えますが、それも人間というものでしょう。

ほかにも様々な言葉と行動とエピソードが強烈なリアリティをもって私たちに迫って来ます。

すみません…
言葉が出て来ない…
物語の紹介だけしておきます…
posted by 塾長 at 22:02| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月15日

ムダをさせる役割がエンシュツカ?

ごく稀に舞台やドラマの演出を担当することがあります。(だいだい、5年に1回くらい)
でも、通常は、自分が演出を担当するのではなく、「演出家先生」のお手伝いをすることのほうが多いです。
そういうポジションはなんと言うのでしょうね…。
舞台監督でもないし、演出助手でもないし、ADやFD(これらはテレビか…)ではもちろんありません。

う〜ん、「アドバイザー(助言者)」が近いように思います。
舞台公演やAV作品制作(アダルトビデオではない)をするに当たって、演出から何かを尋ねられたら自分の知っている範囲で答えるということが多いので、やはりアドバイザーが適当ですね。
もちろん私にいわゆる「決定権」はありません(笑)
決定権を持っているのは演出家先生です。

さて、多くの演出家先生と一緒に仕事をしていると、どうにも疑問に思うことがあります。

@本番で使うかどうかわからない大道具を作らせる
A効果があるかどうか不明な衣裳を作らせる
B説明的な効果音を多く求める
C理由を言わずに作り直しを要求する
Dやはり理由のわからない演技表現や動きを求める

それぞれ説明しておきます。

@本番で使うかどうかわからない大道具を作らせる
いろいろと細かい注文をつけて製作させるのは構わないと思います。スタッフもその注文に応じるのが仕事でもありますからね?
さて、稽古が始まってからも手直し(修整)の要求が出るので、そのたびに作業を行います。そして、これが何度も続きます。
やがて本番前の仕込みをしてから「やっぱりカットする」と言われる。
どうして稽古中に、そして、手直しをさせる前に判断できないのか?
なんで「やっぱり」なのか??
徒労を命じるのは「刑罰」です。

A効果があるかどうか不明な衣裳や小道具を作らせる
舞台公演では観客と舞台の間の距離は結構あります。
映像ではアップもあって細かいところまで見えますが、舞台では、あまり細かいところは見えません。
だから舞台で使う「物(小道具)」は現実の物より少し大きめに作るのが原則です。また「現実の物」より、そのように「作った物」のほうが効果的な場合が多いのです。
なのに演出先生は演劇であるにもかかわらず「本物」を要求する。値段の問題ではなく「効果」の問題です。
舞台と映像は違います。

衣裳もそうです。
例えば「小紋」の着物などは舞台では「無地」に見えてしまうことがあります。だから例え「小紋」と言えど、「客席から見て小紋に見える着物」にするのが妥当でしょう。
衣裳も常に「客席から見てどうなのか」を考えるのが演出の仕事です。もし、演出にそれがわからないのなら衣裳担当スタッフにお任せしたほうが安全です。ところが演出先生は自分のことを「全能の神」と勘違いしているのか専門家の提言を認めない。

B説明的な効果音を多く求める
これに当たった音響担当や効果マンは大変です(笑)
ラジオドラマで多くあるのが「足音」の要求です。素人の脚本や演出では「SE 足音」というのが多い。
でも、ちょっと考えてみてください。私たちは日常生活でどれだけ「他人の足音」を意識的に聴いているでしょうか?
視覚障害者であればともかく、健常者はそれほど意識していないでしょう?
別に「足音のSEをつけるな」ということではありませんが、必要以上に「足音」をつけるとウルサくてしょうがない。
効果音はまさに「効果」的でないといけません。
これは音楽でもそうです。

昔、ある放送局のラジオドラマで効果音を担当したとき「蝶の羽音」を演出から求められてウンザリしたことがあります(笑)
一応は作りましたけど本番ではカットされていました。

C理由を言わずに、やり直しを要求する

これはナレーションでも多いです!
「はい、もう一回やってみよう〜」というやつです。
「噛んだ」とかアクセントを間違ったというのはナレーター自身もわかっていることが多いので、それはもちろんリテイク要求に応えます。
しかし、どこに問題があったか言わずに、あるいは「どこが問題だったかもわからない」演出の要求に応えるのは容易ではありません。
仕事では時間が求められます。
いくら時間をかけても良いということではないのですから、お互い「プロ」として問題点を共有することが大切です。

最近のCMで「ぬいぐるみ」の演出が俳優に「言い方チガウ〜」と言っているのがあります。
「アホ演出」というのはああいうのです(笑)

Dやはり理由のわからない演技表現や動きを求める
俳優に表現を求めるのは演出の仕事のひとつでしょう。
中にはすぐに意図のわからない演出もあります。もしそれが俳優に対する、あるいはスタッフに対する「教育」ならば良いかも知れません。
しかし、「教育」はそれなりの知見と体験と配慮のある人がすべきものです。
たまたま手に入れた立場(演出)にあぐらを掻いて「理不尽」(理由を尽くさない)をやっていいものではありません。
出演者やスタッフはもちろん、最終的には観客にもその「理由」が理解される表現を要求しないといけません

以上、私が多くの演出家先生に接してきて感じた疑問です。
ほかにもいっぱいあるのですが、今回はこれにて…





ラベル:無駄  演出
posted by 塾長 at 22:53| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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