2018年8月からしばらく閉講します。 また年度変わりに受講生を募集してみます。

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2019年06月20日

浦島を知らない子供たち その二

「物語の主役は最も劇(はげしい)的な行動を執った、あるいは大きく生き方(考え方)を変えた人物」

それが前回のブログでの私の主張でした。

そこで、どんな物語であれ、各登場人物の「行動」の変遷を見て行くことで、その人物の「劇的行動」は明らかになると思います。
サンプルとして「浦島太郎」の行動を見ていくことにします。主語を必ず「浦島太郎は、が」というものにします。こうするとわかりやすい。

浦島太郎は(が)……

@亀を助けた
A竜宮城に行った
B乙姫に会い、もてなされた(受動的行動)
C竜宮城での生活を楽しんだ
D故郷に帰りたいと思った
E乙姫から、開けてはいけない玉手箱を貰った(受動的行動)
F故郷に帰った(必然的帰結)
Gたどりついた故郷は、すでに見知らぬ土地であり、見知らぬ人々ばかりだと知った(事実の確認)
H玉手箱を開けた
I老いた

ま、ざっとこんなところでしょう。
受動的行動や必然的な帰結など、浦島太郎の「主体的行動」以外のものはさして重要ではないと思います。

@は物語の発端となるエピソードですから、かなり重要でしょう。これがないと少なくともA、B、Cはありません。
つまり@は起承転結の「起」にあたる部分、「問題提起」ですね。
するとA、B、Cは「承」に当たります。※ちなみにこの「起」と「承」を合わせて「序」と呼ぶこともあります。

そうなると「転」はどれか自ずと知れます。
D故郷に帰りたいと思った
ということになります。※この「転」は先の伝で言うと「破(は)」と言うそうです。

これで浦島太郎の物語は「人間は享楽よりも望郷の念のほうが強く大切に思うものなのだ」ということを描いた物語だと言えます。

ところが物語はさらに浦島太郎に試練を与えます。つまりG以降の状況、すなわち「結」の部分です。

※これも先の伝で言うと「急」というそうです。物語の構成は、昔は「起承転結」ではなく、「序破急」でした。

自分を知る人がいない、自分が知る場所ではないということは「自己の喪失」を意味するのではないでしょうか?
つまり「死んだも同然」という状況です。
浦島太郎は「自分という存在を取り戻す」ための手段になるかと考えて玉手箱を開けます。これは劇的行動ですね!
結果は「老い」をもたらしました。
単に「失われた時間」だけがかろうじて戻ってきたのです。

「失われたものが戻ってくる」ということは、ある意味で幸せなことかも知れません。
一方で、浦島太郎は竜宮城での楽しい時間や乙姫との甘美な思い出だけを胸に秘めて生きていくのかも知れませんね。それも幸せと言えるのかも知れません。

さて、浦島太郎に玉手箱を渡した乙姫は、いったいどういう思いでそういう行動に出たのでしょうか……
私には不可解です。

「私のことは忘れてください」と思っていたのでしょうか?
あるいは…
「私との思い出だけを大切にしてね…」と思って渡したのでしょうか?
不可解です。

しかし、いずれにしても乙姫の行動も「劇的」な行動として捉えることも可能なようです。
そうなると、浦島太郎の物語を「乙姫の物語」(乙姫が主役)として解釈することもできそうです。

このように、物語は「誰の行動を劇的(主役)と捉えるか」によって重層的解釈が成立します。
皆さんもご自分の知っておられる物語の主役を問い直して見られたら、新たな視点でその物語を解釈できるかも知れません。

さて……

以上のような解説をあるところで十代の若者たちにいたしました。
すると、なんと!
全体の2割強の若者たちが「浦島太郎の物語を知らない」という事実に直面しました!!

故郷に帰った浦島太郎の孤独が、少しわかったように思います。



posted by 塾長 at 00:48| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月17日

浦島を知らない子供たち その一

「この物語の主人公は誰か?」

この問いに答えるのは結構難しいものです。
昔、国語の授業で「走れメロス」が教材で、教師が私たち生徒に「この話で一番かわいそうなのは誰か?」と問いました。
多くがメロス、その友であるセリヌンティウス、メロスの妹、妹の婚約者をそれぞれに挙げたのですが、ヘソ曲がりな私は「王だ」と答えました(笑)
するとその国語教師は「お前は独裁者を擁護するのか!」と激怒しました(笑)

「教師は激怒した」

いやいや、私はちゃんと答えたつもりだったのですが…

私「いや、王は確かに独裁者の立場ではあるが、独裁者になりたくて生まれてきたわけではない」
教「部下や親族を殺す王のどこが【哀れ】だと言うかっ?!」
私「なぜ王がそのような猜疑心の塊になったのか、その原因を追求する必要がある。この物語はそこに触れていない」
教「そんなことは考える必要が無い。なぜならこの王は独裁者だからだ。独裁は悪である」



もう話しになりませんでしたな(笑)
余談ながら、案の定、後の定期試験で『この物語の主人公は誰か?』という問題が出たので、私は迷わず『王である』と書いて×印を頂戴しました(笑)

さて、少し話を戻して、「物語の主人公」というのは「最も劇的な行動を執った人物」であり、「大きく価値観と行動を変えた人物」というのが一般的な判断基準です。

そのような観点に基づくならば、「走れメロス」の主人公は、やはり「王」ではないでしょうか?(笑)

ちなみに「劇的」の「劇」というのは「演劇」の「劇」でもあります。ドラマチックというやつですね?
「劇」は訓読みすると「劇(はげ)しい」という意味です。つまり「演劇」とは「しい(こころ)をじること」なのです。
それも見せかけ(最近の日本のテレビドラマのような)ではなく、本心からの「劇しい心」でないといけないと思います。

人間は「見た目の派手さ、大きさ」に心奪われるものです。
世間で大きな物を建てるのはその現れです。宗教施設は大抵が大きいでしょう?(笑)
まあ確かに大きな容器にはたくさんものが入りますけどね?
でも、見た目に騙されてはいけません。
その外観の奥にあるものに思いを馳せることが重要なのではないでしょうか?

小さい自分に劣等感を感じつつ……(笑)

つづく〜〜〜〜
posted by 塾長 at 23:57| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月03日

最も大事なのは「聴く」こと ‐その2‐

質問者と回答者がいて、3つの質問を出し、それぞれに答えてもらうという単純なやりとりを演技の課題として実行してもらいました。
賢明な読者子は、「それって日常でやっている会話に過ぎないやんけっ!」と突っ込んでくださることでしょう。
正に仰せの通りです。
そうなのです…
「演技は人間の姿をベースにして表現する行為」ですから、まずは日常において私たちが何をしているか(行動=動詞)を再確認する必要があると思います。

例えばメールやラインのやりとりを振り返ってみましょう。

あなたが誰かに尋ねたい何かがあったらメールをその人に「送信」します。
さて、あなたからのメールを「受信」した人は、あなたのメール本文をよく読んで考えることでしょう。
そして何らかの「返信」(送信)をして来るはずです。(場合によっては「スルー」もあり得ますがwww)

二人の間でやりとりされるものですから主語が二つになってしまいますが、次のように整理されます。

1.(AさんがBさんに)メールを送信する
2.(Bさんは)メールを受信する
3.(BさんはAさんに)返信(送信)する
4.(AさんはBさんからの)メールを受信する
5.(AさんはBさんに)返信(送信)する
6.(BさんはAさんからのメールを)受信する

以上のように何度かやりとり(送受信)が行われます。
一般的にこれをコミュニケーションと言い、演技では「キャッチボール」と言います。

演技はキャッチボールの連続であることが原則です。

つづく
posted by 塾長 at 00:36| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月01日

最も大事なのは「聴く」こと ‐その1‐

演技の初心者に「演技とは何か」を理解してもらうために様々にアプローチします。

この間、私がよく指導する「三つの質問」という課題を実行してもらいました。
これは質問者役と回答者役を決めて、「三つの質問をし、相手に答えてもらう」というものです。
二人一組ですが、実際には、ほかの二人一組のグループと組んで4人で行ってもらいます。

質問はあまり複雑なものにはしません。
「好きな食べ物(ほかには色、音楽、スポーツなど)は何ですか?」
「どこの出身(学校、地域など)ですか?」
「演技の勉強は楽しいですか?」
というように、質問者には回答者に簡単に答えられる質問を意識してもらいます。

同じチームになった残りの二人には、質問者と回答者の言葉をできるだけ正確に書き取ってもらいます。
お察しの通り、書き取った言葉を組み合わせれば、それだけで「台本」が出来上がります。
この台本は結果に過ぎません。

ところが質問者にも回答者にも「プロセス」があるはずなのです。

質問者は「何を訊ねようか」というきっかけになる考えがあるはずです。
最初の質問が出る前には、回答者も「何を訊ねてくるのかな?」という心の動きがあるはずです。
そして最初の質疑応答があれば、質問者は回答者の返事を聴いて、次の質問を何にしようかと考えるはずです。
回答者も「次は何を訊いて来るかな?」と考えるかも知れません。

このようにして「三つの質疑応答」を完了させます。

実習した人たちは楽しそうにこのやりとりというか課題をこなしてくれました(笑)
演技の勉強は楽しくないといけません。

さて、ひとまず課題を実行し終わりました。
ここからがこの課題の本質に迫ることになります。

つづく
posted by 塾長 at 00:30| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月09日

ナチュラルかリアルか、あるいはスタイルか、はたまたこだわりのなさ?

ある時代劇ドラマを見ていました。
時代劇を見ていていつも思うのは、その演技および演出がナチュラル(日常的)を求めているのか、リアル(虚構とは言え現実感がある)を求めているのか、単なるスタイル(様式)を求めているのか、そもそも何も考えていないのかという疑問です。

まあこのことは現代劇でも言えることなんですけどね?

現代劇で言えば映画の予告編とかドラマの番宣(番組宣伝)の映像を見ておりますと、短いカットで「号泣シーンが連続」していることです(笑)
日本の演技や演出は「涙と言う液体を目から流す」ことにものすごい重きを置いているようです(笑)
聞くところによると子役などは「10秒以内に涙を出せることが必須」なのだとか(笑)
これは演技ではなく「芸」ですね(笑)

さて、少し話を戻しまして…
文字で場面をお伝えするのはいささか無理がありますが、時代劇(江戸時代ね?)で下記のようなカットに疑問を持つ次第です。

【カット1】
家の勝手口の板戸を「ノックする」のだが、それを拳(こぶし)、それも裏拳で2回トントンとやる。

う〜ん、ずいぶん現代的と言うか西洋的ではないでしょうか?
もっとも現代では日本でもそのように行うので、多くの日本人には違和感はないかも知れません。しかし、自分の子供時代(ショウワ)ですら「戸は手のひらでたたく」というのが一般的な習慣であったように思います。コンコンではなく「バンバン」でしたなぁ〜。

【カット2】
両腕、両足を交互に全力疾走〜!

う〜ん、もともと人間の歩き方は「なんば」であったはずなんですね。つまり右足と右手、左手と左足が前に出るというやつです。腕と足を交差させる現代的な歩き方や走り方は明治以降に西洋式軍隊行進が取りいれられたことに由来すると思うのですが…。
おそらくではありますが、明治以前は「ニンジャ走り」が普通だったのではないかと愚考します。
ところが面白いことに牛などは「交差歩き」をするようです(驚)
すなわち@右手〜A左足〜B左手〜C右足といういわゆる「交差」です。だから走ったら速いのかな??

【カット3】
店の前の鉢植えに水をやるだけなのに、なぜか満面の笑顔

これは現代劇などでもよく見かけます。
昔、京都を舞台にした現代劇映画の1シーンでヒロインが出勤時に家から自転車で走り出すのですが「なぜかニッコニッコしながら道を疾走する」というのを見ました(笑)
なにがそんなに嬉しいのかわかりませんでした(笑)
う〜ん、時代劇に出てくる居酒屋の女衆も皆さん笑顔良しで愛想の良いかたが多いようですが…そんなにアピールしなくてもと思います。

ほかにも言いだしたらきりがないくらいにあります。
別に、時代考証を厳密にやれとか、史実を踏まえて演じろとか、イメージなどどうでもいい、というようなことではありません。
時代劇も娯楽作品でしょうからね?

でも、現代劇でも時代劇でも「人間の本来の心と行動」をあまりに無視して、すなわち「あまりにこだわりなくお作りになる」のはいかがなものかと思うクソジジイです。



posted by 塾長 at 17:02| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月23日

第20回講座「ボイスドラマ」D

いよいよ今年度最後のレッスンです。
6名の受講生の皆さん、1年間ありがとうございました。

最後にそれぞれの感想をお聞かせくださいました。

●思いきった演技をするにはどうすれば良いだろうか考えさせられた。
●叫ぶ、唸るなどの音声表現をのどに負担なく行うにはどうすれば良いか。
●疑問に対しての具体的回答があったので参考になった。
●きれいに読もうとするクセがなかなか抜けなかった。
●受講生が幅広い年齢層だったので参考になった。

それぞれに私の意見や回答を述べましたが、それは「参考」に過ぎません。本当の答えは自分で見つけ出すものですね。広く世間で行われている訓練や方法などに疑問を持って、自分なりの工夫や考え方で訓練および勉強なさることをお勧めします。

演技は「技」という文字が含まれているので「技術」だと思われがちですが、そうではありません。
もちろん多少の技術的なものはありますし、古典演劇では「技」がベースになっています。
しかし、本質的には「心の動き」すものだと思います。
だからあえて漢字で表現するなら「技(わざ)」ではなく「業(わざ)」かも知れません(笑)
「人間の業(ごう)」を表現するのが演技なのではないでしょうか?

からの新年度開講は未定ですが、また開講した際には引き続き受講してくだされば幸いです。
皆さんの表現活動が豊かになりますように…
posted by 塾長 at 21:02| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

セリフは言うものではなく、聴くもの

先日、某高校でのレッスンに行ってまいりました。
この前回の授業では生徒たちがそれぞれのグループに分かれて、動き方を決めたり、セリフの言い方についてあれこれと意見を言い合っていました。どれも楽しそうに取り組んでいるようには見えました。笑い声が絶えないので…。
まあ、この時点で「これはダメだろうな」とは思っていたのですが、2グループほど実演してもらうと案の定でした(笑)
立ったり座ったり、大声を張り上げたり、小さな声になったり、表情を変化させたりと、様々な「変化」と「工夫」を見せてはくれました。
が、肝心の「理由」「動機」が見えないのですwww
別な言い方をすれば「(役の)こころが見えない」状態です。

演技は「うそ」「おおげさ」「まぎらわしい」ではいかんのJAYO(笑)

ちゃんとした「理由」(根拠)と「動機」で行動(手段をとる)するのが演技です。
そういう意味では我々人間の日常生活での行動や行為と同じなのです。確かに人間は時と場所と目的によっては「とんでもない行動」をとることがあります。しかし、それにも「理由」(根拠)と「動機」があるはずです。
例えば「死にたい」と言う人には多くの場合「原因」があるでしょう。しかし、原因というのは単一ではなく、複数およびそれが複合的になっていることが多いでしょう。たぶん「死にたい本人」にもそれがはっきりとわかっていないことがあります。
私はそれを「火薬」に譬えます。その「火薬」が大きな爆発を起こす状態にまでたまった時、ごくわずかな「火」で引火します。この「火」に当たるものが「動機」です。
話は逸れますが、社会ではこの「動機」にばかり目を向けがちなのです。確かに動機と原因が重なっている部分が大きいこともあるにはありますが、本質的には「原因」の存在を忘れてはいけないでしょう。

再度申しますが、演技はまず「原因(理由)」が大切であり、何がその行動を起こす「動機」になっているかを台本から読みとらないといけません。
そのためには、「セリフを言う=送信する」ことより「セリフを聴く=受信」に重きを置くほうがよろしいと思います。
歌のハーモニーでもそうでしょう?
自分のパートの音程に気をとられるのではなく、相手の歌のメロディをよく聴くべきなのです。そうでないと美しいハーモニーになりません。

「聴けば」自分のパート(セリフ)を忘れるかも知れません。つまりセリフが出て来ない可能性があるということです。なぜなら「相手の言葉を聴いて何かを感じた」からです。しかし、それは私たちの日常生活そのものではありませんか?
しかし、「自分」の考え方や感じ方や価値観を持っている私たちは、ちゃんと相手の言葉に反応して返事をし、行動します。
すなわち「セリフ」を言い、「行動」するためには「役と言う人間」を創造しないといけないのです。

演技を勉強している人たちには、「そこに【役】として存在し、考え感じ行動すること」をお勧めします。

あ?
高校生たち?www

以上のような説明をしてから実演させましたところ、何人も「セリフ」がぶっ飛んでいましたwww
まったくセリフが出て来ないで頭を抱えている生徒もいました。
本当に祝福すべきことです!
そういう体験をした生徒はきっと演技がうまくなるでしょう。

posted by 塾長 at 01:24| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

様式的発声のコツA ‐発音‐

五十音図を眺めていると不思議なことに気づきませんか?
アイウエオは基本母音ですが、ワイウエオとかヤイユエヨもあって、「イ」「エ」は重複しています。
ちなみに「ヤ」というのは「ia」の連続母音(iとaを早く言うと「ヤ」になる。同様にiuは「ユ」、ioは「ヨ」になる)です。これはワ行も同様で、基本母音の前に「u(ウ)」をつけたものです。

ドイツ語では「ウームラウト」(文字の上に「・・」がついている)という発音があって、「中母音」で発音されるものに相当するでしょう。
現代日本語でも地域や年齢層によっては「国会」を「コックワイ」と発音したり「火事」を「クヮジ」と発音することがあるようです。おそらく「昔の発音」なのでしょうね〜。

このように各音節の発音の前にその音節の子音や母音を付随させる(音楽で言う「修飾音」)と「昔風な発音」になると思われます。

例えば次のようなセリフがあったとします。

「大きな火事があった。恐ろしいことだ」

これを様式的(歌舞伎その他古典演劇風)に書くとこうなるのではないでしょうか?

「おおきなっ火事が〜あった〜。おっそろしいことっだぁ〜」

さらに先述した「発音」上の特色を加えるとこうなります。

おおきなっ、くわが、あったぁぁぁ〜。おそろしい〜おとうあ〜」

そしてさらに前回の記事で述べた「アクセントの高低差を大きくつける」を付加すると…
いかがでしょう?
いかにも古風な「歌舞伎調」「狂言調」「能楽調」になりませんか?(笑)

もちろん「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というように、やりすぎはリアリティを失わせますので、どれほどこれら物理的な要素を加えるかはその俳優と演出の判断にゆだねるしかないと思います。
しかし、演出などから「歌舞伎調で」「能や狂言みたいに」「文楽(これは関西弁アクセント)の義太夫のように」というような要求があったときのヒントになるのではないかと思います。

失礼しました!

posted by 塾長 at 21:48| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

様式的発声のコツ@ ‐アクセントと音長‐

演技表現の幅についてまず説明しないといけません。
これはバカな私が考えていることなのですが、私たちは日常生活において「日常的な表現と様式的な表現の間にいる」ということなのです。
言葉づかいを例にとると「気を付けて行け」という言語表現は、相手によっては、
「お気を付けて行ってらっしゃい(ませ)」になったり、
「気をつけてな〜」に変化します。
一般的に前者は丁寧語および尊敬表現が用いられており、「様式的」と言えます。後者は平等あるいは相手を貶めた、あるいは慣れ親しさの表現であり、「日常的」でしょう。もちろんどちらが正しいとかということとは本質が違います。
自分の子供に「気を付けて行ってらっしゃいませ」と言ってはいけないということではないのですが、もしそういう言語表現を使う親がいたらかなり特殊でしょう。
逆に上司が出張するのを見送る時に「気をつけてな〜」ではその後の仕事に悪影響が出そうです(笑)

つまり、私たちは相手によって日常的な表現と様式的な表現を使い分けているということを言いたいのです。
そして、それは社会生活あるいは私的生活を送る上で必須のことだということです。
ここまではよろしいか?

さて、ここからが標題の件です。

歌舞伎や狂言などの科白表現が「様式的である」ということはご周知でしょう?
もちろん歌舞伎などでは演目や役柄によって「日常的に科白を言う」ということもありますが、多くの人がご存じの「歌舞伎の科白廻し」というのは様式的であり、非日常的ですね。

例えば、遅刻して、学校の正門に駆け込んできた生徒が、
「遅れた、遅〜れ〜た、…ぃやっ、遅〜〜〜れぇ〜〜〜たぁ〜〜〜〜!」(足を踏みならしてパンッパンッ!)
と表現したら、保健室に連れて行かれるかも知れません。

さて、上記のセリフの最初の「遅れた」は比較的「日常的なアクセントと発音」で表現されることでしょう。
しかし、次の「遅〜れ〜た」はいささかアクセントの高低差が最初よりも大きく、さらに音節ごとに長さが伸びていることでしょう。さらに最後の「遅〜〜〜れぇ〜〜〜たぁ〜〜〜〜!」に至ってはもっとアクセントの高低差が非日常的なくらいの高低差になり、かつ身体行動(首を上下に動かしたり)までも伴うでしょう。
なにしろ最後は(足を踏みならしてパンッパンッ!)と見得まで切っています(笑)

このように「様式的な表現」というのは、こと科白に関しては「音の高低差を明確につける」ことと、「音節の長さ(語尾の長さ?)」を変えることで生まれてきます。この物理的変化が「様式」を生み出します。

ただ、ひとこと注意申し上げておきたいのは、そのような「物理的変化」を起こしたら「様式的にはなる」ということで、その表現のベースに「こころ」がないと、単なる形、うわべだけの演技になりますよ(笑)
そうなると感心はされても感動は生み出せません(笑)

次回は「様式的発声」の中の「発音」についてお話しします。
posted by 塾長 at 02:23| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

deldas

「出」と「出」ということでdeldas。adidasの模造品ではありません。
「蛙が変わる!」も同じです。

「なんのこっちゃ!」とお叱りを受けそうですが、ここには演技のヒントがあるのです。乱暴に説明しますが、これらは「自動詞」と「他動詞」の違いです。

学生に演技指導をしておりますと、次のような会話が時折交わされます。

学「先生〜、このセリフをこんな風に変えるのはダメですか〜?」
私「変わるのはいいけど変えるのはダメですな」
学「???」

学生がほかの学生の演技を見て

学「そこはもっと感情を出すほうがいいと思う〜」
私「いや、出すんじゃなくて出るようになるといいね〜」
学「???」

他動詞(原則として目的語伴う)には「意図」「作為」が含まれます。
つまり「セリフる」のは作者や演出の「意図」であって、俳優の意図や作為でやってはいけないということです。また事前に「ここの演技ではこうやろう」という俳優の意図や作為は「演技プラン」という計画の必要性の上では認められますが、実演中にその「計画」を優先させるのは演技本来の行動展開のシステムからは外れていると思います。

演技は「役作りに基づいた意図的ではない、自然な心の動き」をこそ優先させるべきでしょう。
つまり「心かす」のではなく「心」ことが大事なのです。

前回の記事でも述べましたが、器用な人はすぐに「動かす」ことは得意なようです。もちろん器用さというのは演技をする上で武器にはなりますし、仕事の現場では重宝されるだろうと思います。
しかし、やはり本来、演技と言うのは「動く」ことを大切にしてほしいものだと思います。

意図的、作為的な演技は「嘘の演技」と言われます。

posted by 塾長 at 10:58| Comment(0) | 演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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