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2021年01月12日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜まとめ〜


 最初の解釈でも述べましたが、兵助は親に連れられて、この靴屋に13歳の年に奉公に来たと思われます。
 奉公と言うのは衣食住が約束されているだけで、給料が出るわけではありません。きっと兵助の実家は貧しくて、たとえ「差別を受けている」と思われる「靴屋」でも、奉公すれば手に職を付けられると兵助の親は考えたのでしょう。ですが、おそらく親は、兵助を奉公に出さずに済ませたいと思っていたことでしょう。苦渋の決断であったろうと推測します。おそらく奉公させるために兵助を靴屋に連れて来たとき、兵助の着物や常備薬などを持たせたことでしょう。(転じて、兵助の「靴」のケースでは、「靴ずみ」「ブラシ」「釘」がそれに当たります)
 
 また兵助の親は靴屋の親方に「この子を大事にして可愛がってやってください」とも言ったかも知れません。逆に親方は「旅人」のように「この子をどんなふうに使おうとこっちの勝手だ」と言ったのかも知れません。
 しかし、この親方のような当時の「職人」が、親切かつ、靴作りの技術を効率的に教える能力を持っていたとは思えません。おそらく兵助は見よう見まねで靴作りを学んだのだと思います。きっと相当な苦労があったでしょう。靴屋の親方にひどい扱いを受けたかも知れませんね。

 余談ですが、私の知り合いに「長唄囃子方」(ながうたはやしかた)をやっている人がいました。日本舞踊などで鼓を打ったり、太鼓を叩くのがその仕事です。その人は昭和30年ごろ(1955年ごろ)に、兵助同様に「口減らし」のため、囃子方のお師匠さんの家に内弟子として親に入門させられました。いわゆる「住み込み」で鼓の打ち方や。太鼓の叩き方を教えてもらうわけですが、師匠の家の家事全般を受け持つのが主とした仕事で、たまに稽古をつけてもらう程度だったと言います。
 さて、その稽古での話です。ある時、太鼓の叩き方を教えてもらう日がありました。両手にバチを持って叩くのですが、叩き方を間違うと師匠から樫の木のバチ(樫は相当に固い木)で手首をしたたかに叩かれたそうです。叩かれた手首はしびれ、腫れ上がって、しばらくはバチも持てないほどだったと言います。
 兵助の物語の時代から25年も経っていても、いわゆる「師弟間での指導」というのはそういう非効率かつ非科学的な指導だったようです。
 兵助も親方から、何かの失敗をしてしまった時には靴の底の釘を打つカナヅチで手首を叩かれたのかも知れませんね。
 
 兵助は奉公に来たとき、淋しくて、心細くて、悲しくて親を恨んだかも知れませんね。ですが、そんな兵助が「自分の靴」を旅人に売った後、きっと「あの時の親の気持ち」が理解できたのではないかと思います。
 題名が「買われていった」ではなく「売られていった」ということ。すなわち「買う」のは旅人であり、「売る」のは兵助です。靴(子供)は「兵助に売られた」ということになります。これまでの想像を踏まえると、兵助(子供)は親に「売られた」のかも知れないと思うのです。考えすぎかも知れませんが…。

 朗読をするにあたっては聴き手や登場人物(兵助、旅人)の心情と具体的な行為を想像しないといけません。そしてその想像を裏付けるものが、本文中の様々な言葉について調べ、考えを広げることが重要なのだろうと思います。
 このブログでお話ししたことが少しでも「朗読者を志す人」の参考になっておれば幸いです。
 
 それにしても、新美南吉という人は「優しい人」なのだとつくづく思います。



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2021年01月11日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その6〜

とうとう旅人に叱られてしまった兵助です。
兵助の行動は?

兵助(へいすけ)は、「ごめんなさい。」とあやまりました。

 朗読で具体的に場面や兵助の身体行動を表現することは難しい上に、あくまで想像による解釈に過ぎないのですが、兵助は頭を下げたと思われます。
 旅人に正対して頭を下げると、兵助の視線の先には旅人の足元の「靴」があるはずです。
 兵助が自分の作った靴(=子供)を間近で見る最後の機会だということになります。
 朗読者はこのときの兵助の思いに寄り添うべきでしょう。
 兵助が「靴=子供」と別れる最後の瞬間です。切ないです。

 そして、旅人のすがたがみえなくなるまで、じっとみおくっていました。

 もう言わずもがなですが、兵助は旅人を「みおくって」いるのではなく、「自分の作った靴(=子供)」を見送っています。
 兵助が見送っている時間を想像して読むスピードを考慮しないといけません。
 もちろん兵助の悲しさや淋しさに寄り沿ってやるべきでしょう。

 兵助は、あの靴(くつ)がいつまでもかあいがられてくれればよい、とおもいました。
 
 靴(=子供)の行く末を祈るしかない「親の心情」でしょう。

 
 次回は、「まとめ」を掲載して締めくくりとします。





posted by 塾長 at 02:06| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月10日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その5〜

 しばらくすると、また兵助は、おもいだしたように、旅人のあとを追っかけていきました。

 旅人を追いかけるのは2回目です。聴き手はおそらく「次はどんなお願いをするのか」とその具体的な内容に興味を持つことでしょう。
「また」は意味音声(強調)にしたほうが良いと思います。具体的にはやはり「また」の音程を上げるということです。


「もしもし、その靴(くつ)、だいじにはいてやってください。」

 兵助は具体的なお願いをせず、あるいは「できずに」、靴が「買われた」ときに言った言葉を再度繰り返しました。つまり「だいじに」してもらうことが兵助にとって最優先だったということがわかります。
 しかし、この発言の前に「おもいだしたように」とありますから、ひょっとするとその時の兵助には「何か具体的なことを旅人にお願いしなければならない」という思いがあったのかも知れません。
 でも結局、具体的な内容ではなく「靴を思う気持ち」だけを述べます。やはり「子供を思う親の気持ち」に共感してやることが朗読者には必要でしょう。


 旅人(たびびと)はとうとうおこりだしてしまいました。

 兵助のこれまでの意外な行動に驚かされ続けてきた旅人です。「(靴を)かあいがれ」「靴ずみとブラシで手入れをしろ」「底が抜けたらクギで補修しろ」そしてまた「かあいがれ」という兵助への「いらだち(いらだつ)」という内的動詞が次のセリフに反映されるべきでしょう。
 兵助の靴(=子供)に対する思いが空回りしたのだと言えるでしょう。それほど兵助は自分の作った靴がいとおしくてたまらないのでしょう。

「うるさいこぞうだね、この靴(くつ)をどんなふうにはこうとわたしのかってだ。」

 先述しましたが、兵助の言動への「いらだち」が表現されるべきでしょう。ただ、どこまで「苛立つ」「怒る」のかは朗読者の個性によって変わると思います。また解釈上では、すでに「靴=(兵助の)子供」という認識はされています。つまり「この子供をどう扱うかは私(旅人)の自由だ」という意味になります。
 「靴を買った旅人=客=権利を持つ者=権力者」という構図ですね。
 この意識は今も変わらないと思います。この一言で兵助は無力感にさいなまれたことでしょう。かわいそうです…。

 余談ですが、私も若い人たちを指導する立場なので、つい「権力」を振り回していることがあるかも知れません。確かに昔は「思いっきり権力を振りかざして」いたように思います(笑)
 今から思えば許されないことだったと思います。
 でも、歳をとった今では「自分は無能な人間だ」と自分に言い聞かせられるようにもなりました。
 お陰で、良くも悪くも腹を立てることはなくなりました(笑)
 人間は「今ここにあること」と「他者に生かされていること」への感謝だけをしておれば良いのだと思います。

さあ、兵助はどうするのでしょうか……



posted by 塾長 at 02:08| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月09日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その4〜

自分の靴を買ってくれた「旅人」に、兵助は「靴ずみ」と「ブラシ」をあげました。いずれも「靴のケア」をする品物ですね。
兵助は自分の子供のような靴をケアしてほしいのですね…。
子供の身を案じる「親」の立場なら、これらの品物は「薬」や「肌着」のようなものかも知れません(笑)

さあ、旅人はどう思ったのでしょうか?


旅人(たびびと)は、めずらしいことをいうこぞうだ、とかんしんしていきました。

 「めずらしいことをいうこぞうだ」は旅人のセリフです。実際に発声したわけではないのでカギカッコでくくられていません。いわゆるモノローグ(心の声)です。しかし「かんしん」しているので、その内的動詞は音声表現したほうがいいでしょう。良い意味で「軽く驚く」という動詞で良いと思います。
 そして「旅人」は「行ってしまいます」が、その時の兵助の視線はどこにあるでしょう。おそらく旅人の足元、つまり「靴」を見ているのでしょう。やはり「子を見送る親」の心情を心にとどめておくべきだと思います。

しばらくすると兵助は、つかつかと旅人のあとを追っかけていきました。

ここは意外な展開です。朗読者は聴き手の立場に立って、やはりこの物語の聴き手が「(少し)驚く」という内的動詞を表現したほうがいいでしょう。

「もしもし、その靴(くつ)のうらの釘(くぎ)がぬけたら、この釘(くぎ)をそこにうってください。」
といって、釘(くぎ)をポケットから出してやりました。


 現在、靴の底は糸で本体と縫い合わされていることが多いのですが、当時は短い釘で靴本体と貼り合わせているケースが多かったのです。
 最初は「靴ずみ」「ブラシ」でケアに対する配慮を見せた兵助ですが、底が抜けてしまうとこの靴は廃棄されてしまうかも知れません。
 兵助にとってそれは最悪な事態なので、それを避けようとしたのでしょう。しかし、先述しましたが、当時の靴は「履きつぶす」ものだったはずです。(あ、今もそうか…)
 そう考えると、兵助は自分の靴が履きつぶされることも否定したかったのかも知れませんね。

 ところで「ポケットから」「出してやりました」ではなく「ポケットから(釘を)だして」+「(旅人に)やりました」という意味でしょう。「だして、やりました」というイントネーションになります。
 ここでの兵助は「案じる」という行動が大きいでしょう。

 兵助は「自分のつくった靴」が可愛くて、いとおしくてしょうがないのでしょうね?



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2021年01月08日

「売られていった靴」を朗読するためのヒント 〜その3〜

さあ、「売られていった靴」の三行目からの私見を述べます。

するとひとりの旅人(たびびと)がやってきて、その靴(くつ)を買いました。
 
 兵助の初めてのクライアントが「旅人」であるということが重要です。つまり兵助は自分の作った靴と再会する可能性が極めて低いということになるからです。
 ちなみに現代のように服に合わせて靴を変えるというような考えはなく、せいぜい洋服なら靴、和服なら下駄や草履という時代です。
「旅人」ですから、おそらく履きつぶした靴と履き替えるために兵助の靴を買ったのでしょう。ですから「買った」この時点で、兵助の靴は「旅人」に履かれています。

兵助は、じぶんのつくった靴(くつ)がはじめて売れたので、うれしくてうれしくてたまりません。

 モノづくりの喜びが伺えます。自分の作ったモノが他者に評価されたということです。「うれしくて」という言葉が繰り返されていることから兵助の「喜ぶ」という内的動詞を表現しないといけないでしょう。具体的には2回目の「うれしくて」は1回目より音程を上げた方が良いと思います。

「もしもし、この靴(くつ)ずみとブラシをあげますから、その靴(くつ)をだいじにして、かあいがってやってください。」と、兵助(へいすけ)はいいました。

 たかが物体である「靴」のことを「だいじにしてかあいがってやってください」とまで言う兵助です。
 ここから「自分が作った靴」は兵助にとって「自分の子である」という意識を読み取ることができます。子を思う親の気持ちだと理解できます。
 読み手は兵助の「親としての心情」に共感して少なくとも「(子供を送りだす)喜び(喜ぶ)」という内的動詞と、「(子供の行く末を)案じる(心配する)」という内的動詞をカギカッコのセリフに複合的に出力させないといけないでしょう。課題となるのはその割合をどうするかということです。この内的動詞の配合の割合をどうするかということは人によって異なるので、それがその朗読者の個性だと言えるでしょう。

 「喜ぶ」を大きく表現する人もおれば、「案じる」を大きく表現する人もいるでしょう。
 私の教え子のある人は「案じる」(心配する)を大きく表現しました。さらにその表現からは「靴(=子供)と別れる悲しむ(み)」も表現されていたように思います。
 その結果、その朗読は「優しい」表現になりました。私は自分の好みで言えばこういう表現が好きです。しかし、演出上の観点で、まずはこの時点では「喜ぶ」を大きく表現した方が良いという考えもあると思います。

 さあ、このような兵助の言動に「旅人」はどんな感想を抱くのでしょうか?
ラベル:新美南吉
posted by 塾長 at 01:46| Comment(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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